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御光の家のこと1
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「まったくこの娘は、使い物にならないねぇ」
厨房から怒号が響いた。
「これから天子様のお客様が来るっていうのに、これじゃあ間に合わないよ」
14畳程の厨房は、慌ただしく昼食の準備に追われていた。女性信者のお局様が忙しなく配膳係五名に指示を与えている。その的となっているのが、先日初めて天子からの「御寵愛」を享けた、天野 礼子16歳である。要領の悪い礼子は、額の汗を拭う暇もなく料理を小鉢に盛っていた。
天子様と呼ばれるのは、新興宗教団体 宗教法人「御光の家」教祖、大原 光洋62歳のひとり息子、大原 愛明のことで、今日は愛明30歳の誕生日を祝う席に、県内の代表信者12名を招いていた。
御光の家では、「男子30にして神の御こころを知る」という節目の歳として、信者は教祖の「御霊なる言の葉」を賜ることにより、修行から解放され、「教えの徒」とし、布教活動に専念する真の弟子に昇格する。これを「天昇の儀」と呼び、年2回、上半期下半期に分け、6月と12月にこの期間で30歳になる一般信者男子に対し執り行われる。この際、お布施料としてひとり50万円を寄付する事が義務付けられている。
天子の場合は、天昇の儀により大天子様となり、次期教祖の地位を不動のものとされる。が、設立20年そこらの宗教団体にとって、これらはあくまで建前の話で、その目的は布施集めにある。
代表信者とは、一年間で布施料の多かった信者の中から上位12名を選任し、教祖、天子に次ぐ「使徒」として、団体の中で優遇される。毎年選任と言っても、ここ10年変化なく、不動の代表信者とされている。
宗教法人「御光の家」は、富士河口湖町に1975年(昭和50年)、大原 光洋により設立された。その前身は、自然農法による農業団体である。
1968年(昭和43年)光洋は、所有する約5ヘクタール(東京ドーム約1こ分)の農地を改良し、無農薬自然農法をうたい、大根、人参等の根菜やキャベツ、トマトの栽培を始める。
この頃世間では「紅茶きのこ」を中心に健康食ブームが沸き上がり、光洋の作る野菜は、それに肖り売上を伸ばして行った。その後、近隣の農地を徐々に買い上げ続け、5年後にはその規模を20ヘクタールにまで増やした。
1970年代はオカルトブームであり、73年に「ノストラダムスの大予言」、小松 左京の「日本沈没」など、世紀末的な退廃を予感させる書物、映画がヒットする。また10月には第四次中東戦争が勃発、これを機に、海外にエネルギー資源を依存していた日本は、原油価格上昇の懸念から、一気にインフレーションが加速された。
この第一次オイルショックで、スーパーなどではトイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買い占めが起こり、世間は一時パニックを起こした。翌年74年の消費者物価指数は23パーセント上昇し、「狂乱物価」なる造語まで生まれている。
余談だが、紙資源の不足から週刊紙や漫画雑誌の頁数が軒並み削減され、書籍では、文字を小さくし、頁内に多く収める為に行数が増やされる等が行われた。以後、漫画の単行本や、小説の文庫本が主流となり現在に至っている。
混乱を逆手にとり、自然農法に自給自足の概念を導入。畜産にも手を広げ、 農業体験と企業の人材教育を一貫させた光洋の事業は急成長。その形態を、宗教法人に一気に押し上げた。
以後バブル期に突入すると、山梨県を中心に全国の信者は5万人を超え、東証一部上場企業等も、新入社員教育に御光の家を利用するようになる。
礼子の祖父は農業を営んでいた。
交通死亡事故で他界した両親の過失により、被害者へ支払う慰謝料を相続した礼子を戸籍移動する際、任意保険では賄えきれなかった賠償金を返済する為に、所有していた農地を売却し、支払いの一部に充てた。
残りの慰謝料に関しては、以前から農業で親交のあった光洋に借金をし、なんとか自宅とその土地だけは守る事が出来た。
光洋への借金返済は、施設での農業体験実習の指導員となり、給与の一部を月々の返済に充てることと、担保として、光洋を受取人とした、生命保険に加入することで承諾してもらっている。
祖父は、毎日朝から晩まで休む間も無く働いた。事故を起こし死んだ息子の負債を背負うことが、親としての義務であり、孫の将来を見守る責任は、自分にあると考えていた。礼子のこれからの人生、その為だけに生きようと妻と誓った。
だから、光洋からの申し出はなんとしてでも断るつもりでいた。礼子だけは、御光の家に関わらせたくなかった。
1986年12月から91年2月迄、51ヶ月に渡るバブル期が崩壊すると、御光の家にも陰りが見え始め、新入社員教育での大手企業の施設利用頻度が年を追う毎に減少。それに合わせ、一般信者数も下降傾向にあった。
バブル期に拡大した現金資産は、事業拡張時に多額の銀行融資を受けた際の、月々の返済に充てられるようになり年々降下していく。
農作物は、付加価値の付いた高価なものは敬遠され、安値での販売が続き利益はない。それと共に、所有する農地の資産価値も下落した為、バブル崩壊以後、貸し渋り、貸し剥がしに方向転換した銀行からの融資は、期待出来ない状況が続いた。
礼子が施設奉仕を強要されたのは、そんな頃である。
彼女は御光の家が嫌いであった。施設の存在そのものを、憎らしく思っていた。
1995年(平成7年)中学校に進学すると、土曜日の午後と日曜日の終日は、必ず祖父に連れられ、施設で家畜の餌やりや小屋清掃、汚物処理に従事させられた。
仕事の後は、天子の説教を聴くのに信者は皆正座をしなくてはならない。足の痺れで、10分とまともに正座が出来ない礼子にとっては、苦痛の時間でしかなかった。
幼少から、人見知りでいじめられっ子だった彼女にとって、中学校生活は憧れであり、念望であった。新しい友人を沢山つくりたい、部活動を通して集中出来る何かを探したい、今の卑屈な自分を変えるきっかけが、中学に進学することで必ず見付けられる……そう信じていた。しかし、現実は部活動に参加できず、友人と休みの日に会うことも儘ならない。まわりに遠慮しながら、つい人の視線が気になり思ったことも言えなくなる。全てに後退り……以前と少しも変わらない……。礼子が拭い去りたかった過去こそが、今の日常なのだ。
いつしか、「こんなはずではない」という言葉が、礼子の脳内を呪文のように連呼するようになる。
中学二年の10月に祖父が自殺をした。
祖父の死後、その生命保険金で光洋への借金は無くなったものの、祖母は神経衰弱で心身に異常をきたし、日に日に食が落ちると、翌年2月に肺炎を患い、二ヶ月後には帰らぬ人となる。
天涯孤独となった礼子は、御光の家を頼らざる他生きる術を知らない。光洋に言われるまま、施設で暮らすこととなった。
中学生の礼子にとって、信者としての勤めは厳しい。
毎朝5時には起床し、他の信者と共に、御光の家に研修に来ている、各企業新入社員の朝食づくりに追われる。7時に配膳を済ませた後は、自身の中学登校の準備をしなくてはならない。ホームルーム開始直前に、飛び込むように教室に入るのが常であった。
授業が終わると走って施設に戻り、家畜小屋の清掃と、研修者への夕食準備が日々の役割となっている。夕食の後片付けを済ませ、天子による説教が終わるのが、夜の9時をまわり、その後解放され自分の時間となる。そんな生活が一年続いた。
薄々は感じていたものの、高校には進学させて貰えなかった。その後の生活は、今まで以上に厳しいものであった。修行の中で、自身を見失って行くのが、解っているうちはまだ良いが、次第にそんな意識も遠ざかり、御光の家という底の見えない沼に、何時しかどっぷりと浸かっていった。
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