全力で走り出す瞬間

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 午後六時。早めに仕事を切り上げ、家路をたどる。職場から三十分ほど歩いたところに建つ賃貸マンションに住んでいる。バス通勤をしていたのだが、ここ数日前から歩いて通勤していた。  すでに日は暮れ、まるで冷蔵庫の中を歩くようだ。息を吸うたび全身が凍りそうになる。  こんな思いをしてまで歩くのには理由がある。  健康診断が近いからだとか、歩けば温もるからとかいう理由じゃない。通勤にかかる交通費をケチっているだけだ。スマホ決済で往復二百円だが日々の積み重ねでお金も貯まるというもの。もうすぐ生まれてくる赤ん坊のためにも。 三十歳を過ぎて結婚した。妻は私のみっつ上。四十を手前にようやく授かった。  先週から妻は出産のため市外にある実家に帰っている。妻の両親は初孫ができることを楽しみにしている。もちろん私も同じだ。  生まれてくる赤ん坊はすでに娘であることはわかっている。そろそろ名前を考えないといけない。  妻とは連絡を取り合いながら互いに思いついたものをラインでやり取りしているが、いまだ決まっていない。私は娘の名前に『子』をつけたいのだが、妻はぜったいにいやだと反対している。  『子』にこだわっているのにはわけがある。私の感性というか、公園で遊んでいるときに大きな声でも呼べるような名前にしたいからだ。人の目がやたら気になる私はキラキラした名前を呼べる自信がなかった。だから、オーソドックスな『子』をつけた名前で、妻を納得させる名前はないものかと歩きながら考える。  一月に生まれる予定だから誕生月の花から浮かぶイメージで考えるのも悪くない。  スマホで調べると、真っ先に出てきたのがカーネーション。  母の日に贈る花という認識でいたが一月の誕生花らしい。はじめて知った。  花言葉は無垢で深い愛。であるならば『愛子』か。  考え事をしていても腹は減る。飲食店がぽつぽつ並ぶ通りからは食欲が掻き立てられる揚げ物の匂いが漂ってくる。どこか居酒屋にでも寄って帰りたいのが本音だが、そんな贅沢はできない。なんといっても家族が増えるのだから。  さて、それでは晩ごはんはどうするか。  これまで食事はすべて妻にまかせてきた。出てくる料理を当たり前のように食べていたことが、どれほど幸せなことだったか、いまは身に沁みる。妻に感謝しかない。だから早く帰ってきてくれ、と腹が減るたびに思う。  けっきょく今夜も総菜にするか。  ここのところ続いているが、昨日も行ったスーパーの前で足が止まる。このスーパーを最後に家まで飲食店はなく、途中に小さな酒屋が一軒あるだけでコンビニはおろか食料を買えるような店もない。食料を手に入れるのなら当然ここで買うことになるわけで、自然とスーパーに足が向かう。  二階建ての小ぢんまりとしたスーパーだ。たった数日つづけて来ただけで店内の食品コーナーの配置は頭に入った。それだけはない。女性店員の中で気になる子もできた。気になるといっても声をかけたりするわけじゃない。ただ見ているだけだ。今日も彼女に会えるだろうか。  自動ドアをくぐり、カゴを手にする。刺身もいいなと思いながら。
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