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プロローグ
花の金曜日。なんとか仕事を定時で終わらせて足早に帰宅した葉月は、落ち着く間もなく風呂を済ませた。
流しっぱなしのテレビからは笑い声が響き、それをBGMに髪を乱雑に乾かした。
紺色の無地のスウェットという女らしさのかけらもない姿で、リビングのテーブルに缶ビールと酎ハイ、作り置きしておいたおかずを並べる。
そして、帰宅途中のコンビニで買ったポテチを一つ取り出したら準備は完璧だ。
時計を見ればちょうど九時になるところ。
やっとクッションに腰を落ち着け、天井を見上げながら長く息を吐く。
去年までの葉月だったなら、今頃のんびりと風呂に入っているか夕飯を食べている頃だ。家事が得意な人間でもないし、さっさと済ませて夜をのんびり過ごすなんてことを考える人間でもない。
むしろ、疲れた身体を癒やそうと「一旦休憩~」などと言いながら座って、そのままずるずるとだらけるタイプだ。
そんな葉月がなぜこうも早急に支度を済ませているかというと、あまり遅くなると風呂やら食事の準備が出来なくなる可能性があるからなのだ。
電気や水を止められる訳ではない。
風呂や台所に行けなくなるのだ。
ぼんやりと眺める一人の部屋で、テレビの声だけが響くというのも物悲しくてスイッチを切る。液晶がプツンと途絶え、時計の秒針だけが葉月の耳を打つ。
まだかな、と心の中で呟いた。
必ず来るという保証があるわけではないのに。
冷やしておいた缶の周りに水滴が浮き始めた頃――。
テーブルに突っ伏す形で脱力していた葉月が物音を捉えた。バッと起き上がって目を向ける。
思った通り、廊下から一人の男が現れた。
「なんだ、先に始めてたのか」
「ううん、まだ。来るの待ってたから」
安いアパートの室内には不釣り合いなほどに美しい男だ。
そしてその身にまとう衣服もまた、日頃葉月が目にするものとは違う。黒いマントを翻し、ショート丈の黒いジャケットと細身の黒いパンツ。黒地に施された控えめな金の刺繍が漆黒を引き立たせる。
黒で埋め尽くされたその姿の中で、マントの裏地の赤とジャケットから見える真っ白なシャツのウエストが、嫌に目を引く。
こんな姿で外を歩いていたら視線を集めることは必然だ。
彼の場合はその美しい顔立ちの方に目を引かれるかもしれないが。
「今日ってどこだった?」
「風呂だ」
短く告げた彼が、勝手知ったる様子で葉月の寝室に消えていくのを見送りながら
「先に済ませててよかった~」
と、万歳の体勢で背中から倒れ込んだ。
こういうことがあるから帰宅してさっさと済ませておかないと困るのだ。
「眠いのか?」
さっきまでの綺麗な刺繍の施された衣装を剥ぎ取った彼―マオが葉月を見下ろす。
色違いのグレーのスウェットに身を包んでも隠し切れない美しさに、うっと呻いて目をすぼめた。
それをふざけていると受け取ったマオは、呆れた顔で「起きろ」と促しながら向かいに座っる。
葉月はビール、マオは甘い酎ハイを持つ。
カン、と軽い音を立ててぶつけ合い、互いに缶をあおった。
見上げた姿勢のまま長く息を漏らす。マオもやっと体から力を抜いてほっと息をついていた。
「……きんぴらか」
「そう、ピリ辛仕立て。辛いのは大丈夫でしょ?」
「うん」
のそのそと腕を伸ばし、マオがきんぴらの小皿に箸を伸ばした。
一口が随分と小さい。葉月はぼけっとその小さな口がきんぴらを頬張るのを見つめていた。
マオは苦いものが駄目だ。だからビールが飲めない。炭酸の刺激も苦手だが、甘さのあるものならまだ大丈夫。
辛いものも、度が過ぎなければ美味しく頂けるらしい。
こちらで見る料理や飲み物は、彼の世界では見ないものばかりのようだ。だから初めてのものを口にするときは恐る恐ると、今以上に小さな一口を運ぶのだ。
その様子が可愛らしく見え始めた時はついに目がおかしくなったのかと思った。
今じゃ積極的にその顔が見たくて大して得意でもないくせに料理本やネットを漁っているのだから末期だな、と諦めている。
葉月はビールを大きくあおった。苦みのある液体が喉を刺激しながら下っていく。
「葉月、ポテチがコンソメじゃないぞ」
「私はうすしおの方が好きなの」
缶を揺らしながら「自分で買ってくれば?」と言えば、途端にマオは黙ってしまった。
切れ長の赤い瞳が伏せられる。
「出られないと知っているくせに。意地が悪い」
そう恨みがまし気な声で呟かれた。
「ごめんて、今度買ってくるよ。今日はうすしおで我慢して」
「うすしおも嫌いじゃない」
葉月の軽い謝罪を正面から受け止めたマオは、罰が悪そうに加えた。買ってきてもらっている立場で我儘を言ったと思っているのだ。
マオの言う通り、最初に意地の悪いことを言った葉月が悪いのだ。それなのにそうやってフォローを入れてしまうのだから、葉月はどうしていいのかわからない。
「ほら、それもう入ってないでしょ? これ、マオの好きな桃味だよ」
空の缶を横からぶん取ってその手に新しい酒を持たせる。マオは素直に缶を開け、再びちびちびと飲み始めた。
(もう赤くなってる)
光を反射するほどに真っ白な肌に、今は朱がさしている。きりっとした瞳だって、今はどこか蕩けているように見えた。
(まあ、もう二缶目だしね)
この男、お酒は缶二本で限界なのだ。
本人は強いと申告しているが、葉月は何度も彼の酔った姿を見ているので信憑性は薄いと思っている。
マオ曰く、こちらの酒と相性が悪いということだ。
(異世界の魔王様が酒に弱いなんて夢も何もないな……)
魔王からとって「マオ」。安直でそしてわかりやすい名だ。葉月が命名した。
本人は渋っていたが、頑なに名を教えないのもマオなので、そのうちに受け入れたようだ。
むしゃむしゃときんぴらをつまみながら葉月はマオを盗み見る。
スウェット姿でもわかる均整の取れた体つき。男性にしては細身かも知れない。
神々しくも見える美しい顔立ちは目に毒なほどだ。さらさらの髪は羨ましさを覚えるし、しみ一つない肌に恨めしさを感じる。
そして、その髪をかき分けて左右の側頭部からのぞく角。細い指の先にある伸びた鋭い爪。耳だって葉月のものよりも尖っていた。
葉月と同じようでいて、しかしその節々で異質さを醸し出しているその男は、ここ―葉月の暮らす世界とは別の世界からやってきた魔王なのだ。
そして、その自称魔王のお城の一室と、なぜか葉月の住んでいるアパートの扉が繋がってしまったのだ。
今日は風呂場の扉が。クローゼットの時も、玄関扉の時だってある。
繋がる扉は常にランダムで規則性はない。そして、終始繋がっているわけではなく、不定期だ。
連日つながることもあれば、一週間二週間と間が空くこともある。夜の時間帯が多いけれど、それだって固定されているわけではない。
以前、トイレの扉が繋がったときは控えめに言って地獄だった。
トイレに行きたくても、扉を開ければマオの自室に繋がっているのだ。目当てのものは存在しない。
初めは近くのコンビニに行くかとも思ったが、マオが夜に葉月を一人で外に出すことを渋った。
確かに深夜の二時を回っていたので女が一人で外出するには戸惑われる。
しかし、自身の尊厳が関わるとなれば話は別だ。
最終的には半泣きの葉月に折れて、マオがトイレを貸してくれたのだ。
きっと魔王の城にトイレを借りに訪れたのは葉月が初であろう。
向こうの世界のことを、葉月はほとんど知らない。
葉月があちらに赴いたのは、そのトイレの時のみだ。マオの自室であろうその部屋と、石造りの廊下、そして窓から見えた真っ暗な外の冷たい空気しか知らない。
マオからだってほとんど何も聞いていない。
(なんだか、触れづらい話題なんだよな・・・・・・)
ただ、彼が孤独を抱えていることだけ、葉月は知っている。
最初のうちはその冷徹な美しさに畏怖を感じてびびり散らしていたものだが、今じゃマオがお人好しで優しいのだと知っている。
これまでは抽象的なことしか訊かなかった。マオにも逃げ道があるようにだ。きっと葉月が望めばマオは自身の置かれている状況も何もかも答えてはくれるだろう。
しかし、それはマオの意思に反したものかもしれない。
言いたくないなら無理に言って欲しくない。今までだって知らずとも別段問題はなかった。
「きんぴらがなくなった・・・・・・」
「あ~作り置きそれで最後だわ。でも、マオそろそろ眠いでしょ?」
「いや、まだ眠くない」
「はいはい、缶は片付けちゃうね~」
ふらふらと揺れ始めた正面の頭を見て、その手から缶を抜き取った。
綺麗に飲み干してある。さすがだ。好物に関しては妥協しない。
袋に残ったポテトチップスのカスをかき集めて葉月は口に放り込む。最後にビールをぐいっと全て飲み干して葉月も晩酌は終了だ。
いそいそと缶と袋をゴミ箱に入れて食器は水に浸しておく。葉月がテーブルに戻ったとき、すでにマオは顔を伏せて寝息を立てていた。
「マオ~? 寝てる?」
なんとなく顔の前で手を振ってみるが、あの赤い瞳がこちらを向くことはない。微かな寝息だけが葉月に届く。
反応をもらえなかった手が、一度テーブルに倒れて戸惑いがちに持ち上がった。
指先がマオの毛先に触れる。さらさらと柔らかな髪が葉月の肌をなでて落ちていった。
「まお・・・・・・」
随分とまあ弱々しい声が出てしまった。
髪に触れた手をそのまま角に伸ばそうとしたが、触れる直前で引っ込める。
「寝てる間に触るのは良くないよね」
眺めるだけに留めよう。
――あなたが、私に気を遣ってるのに、私から不躾に一方的に距離を縮めていいわけがない。
マオは、魔王と自称するだけの力を持っている。その手の鋭い爪に触れれば、葉月の肉体など簡単に切りつけられてしまうし、葉月にはよくわからない不思議な力で一瞬で息の根を止めることだって出来る。
実際にそんなところを見たわけではない。けれど、自分の生存本能がひりひりと焼け付くような警告を発する時があるのだ。
それでも、葉月がマオとの晩酌をこうして楽しんでいるのは、マオが無闇矢鱈にその力を振るおうとはしないからである。
いつも葉月とは一定の距離を保っているし、傷つけることを恐れているからかマオから触れてきたことはほとんどない。それが彼の優しさだ。
だから、ぞっと腹の冷えるような感覚に陥ってもマオを怖いとは思わない。
「ああ~眠い・・・・・・」
全く眠気などないくせに、そんな自分に暗示をかけるように後ろにひっくり返って横になった。
後頭部がカーペットから飛び出たせいでひんやりした冷たさが少しずつ染み渡っていく。頭はだんだんと冷めていくのに、身体の中はどうしようもなく熱に浮かされていた。
鼓動の音が随分とはっきり感じる。
さきほど見据えていたマオの寝顔を思い出して瞼を落とした。
出会って一年。きっと顔を合わせることが出来たのはその三分の一にも満たない日数だ。
それなのに、マオの存在は葉月の心の内の多くを占めるようになってしまった。
――家族みたいじゃない?
以前言った自分の言葉が蘇る。本当にそうなれたらどれだけいいだろう。
片方だけが得をする関係を、きっと家族とは言わない。葉月ばかりが彼に救われていて、己は何も与えることも出来ない。それがもどかしい。
「難儀なことになっちゃったなぁ」
そう言いつつも、嫌な気分ではない。ただ、不安ともどかしさは常につきまとう。
(私たちって、いつまで会えるのかな)
突然始まった奇妙な二人の関係は、終わりだってきっと突然だ。
今日みたいに確証もなくマオを待ち続け、明日かも、いや来週かなと同じことを繰り返して時が過ぎて、きっといつか悟る日が来る。
それでも多分、簡単には諦められないだろうが。
もしかしたらまたつながるかも、なんて希望を持ち続けてしまうから。
しかし、原因も何もわからないこの邂逅に対して、葉月が出来ることは何もない。ただ、少しでも長く続いてくれることを願うだけなのだ。
だが、葉月のそんな思いとは裏腹に、この非日常的な日常は終わりが近づいていた。新たな来訪者によって、二人の日常は壊れ始めることになる。
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