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四話
休みの日は、葉月は基本的に起床時間は遅いし、動きもひどくゆったりだ。しかし、今日ばかりはそうも言っていられない。
九時を前にした時計をチラリと見て、慌てて鞄の中身を確認してからコートを引っ掴んだ。
「どうせ一泊しかしないから着替えはこれでいいでしょ。財布に携帯に・・・・・・うん、とりあえず大丈夫かな・・・・・・」
一月二日。年が明けて早々、実家に顔を出す日である。
実家の最寄り駅で姉と待ち合わせをして、そこから二人でバスに乗って帰る。
「やば、もう出なきゃ・・・・・・」
コートに袖を通しながら暖房などの電源を一通り見渡して切れていることを確かめてから荷物を抱える。と言ってもリュックと手持ちの鞄が一つだ。
「あ、」
いざ出ようとしたところで思い至る。
――マオが来たときにどうしようか。
くるという保証はないが、来ないと言い切れるわけではない。昼間に来たときは葉月が仕事だとわかっているからかすぐに引き返すらしいが、もし万が一にいつもの夜の時間に来て真っ暗な部屋を見たらどう思うだろうか。
「メモ帳どこだったっけ」
部屋の机に置いていたメモ用紙を一枚引き剥がす。勢い余って端がうまく切り取れなかった。
「実家に帰ってます。明日には帰ってくるよ、と・・・・・・」
もしかしたら気づかない可能性もあるが、それならそれで別にいい。いつも使っているリビングのテーブルにそれを置いて、飛んでいかないようにテレビのチャンネルを重し代わりにした。
「ああ、やばいやばい。電車の時間がっ!」
マフラーは首に掛けるだけで忙しなく鍵をかけてから、葉月はバタバタと足音を立てて駅へと走り出した。
二時間弱、二回ほど乗り換えを挟みながら電車に揺られてたどり着いた駅の改札を出れば、正面の柱にはすでに姉の姿が見えた。
「お姉ちゃん、ごめんね」
スマホから顔を上げた姉は、葉月を見るとふっと表情を和らげ、
「十分遅刻!」
と笑って見せた。
「電車の乗り継ぎでしくった」
「何回も乗ってんのに何言ってんのよ、全くもう」
けらけらと笑う姉―奈葉が顔を上げて笑う度に、紺色のマフラーから短く切り揃えられた髪が現れては揺れる。
(まだ慣れないな。お姉ちゃんのこの雰囲気)
顎のラインで綺麗に切り揃えられた真っ直ぐな黒髪。紺色のマフラーや、真っ黒な黒のパンツと厚底のブーツ。
葉月と同じように長身の奈葉が高いヒールの靴を履くと、それだけで威圧感が増す。それに加えて真っ黒な服で揃えたとなれば、気の強い勝ち気で近寄りがたい女の完成である。
まあ、今の葉月の服もそう変わりはしないが、淡い色のトレンチコートを羽織っているだけ、まだ葉月の方がマシだ。
「途中まですっごく混んでてさ、最悪だったわ。新年早々満員電車に揺られて」
「あ~あそこ有名な神社あるからね。みんな初詣か」
何も言わずとも横に並んでバスに向かって歩き始める。元々そんなに利用者は多くない駅だ。今だって葉月たちの他に、バス停に見えるのは二人の影だけだ。ひゅーひゅー冷たい風が通り抜けていくので、マフラーに顔を埋めながらたわいもない近況報告を交わし合った。
「女の子の友達できたんだ」
「友達っていうか、後輩だけどね」
「でも、気兼ねなく話せるのはいいんじゃない? ほら、葉月の周りの子って今まであんたのこと慕ってるっていうか夢見てるような子が多かったから」
「まあ、確かにそうだけど」
自身の学生時代を思い出し、「あはは」と感情の乗らない声で笑った。
学生時代――特に中学や高校時代は、葉月はよく注目を集める子供だった。と言っても、勉強が出来たり運動神経がずば抜けて良い、という意味ではなく、女子たちからみた王子様像というものに都合良く当てはめられていただけなのだが。
下手な男子よりも背が高く、耳が隠れる程度の短髪で、おまけに男子よりも気軽に話が出来て誰にでも優しく接してくれる。
葉月は女子間でのトラブルに巻き込まれたくて適度に距離を保って角の立たないように満遍なく穏やかに接していただけなのだが、それが容姿と相まって女子たちの間で一時的なブームを引き起こしてしまったのだ。
これで頭が悪かったり運動が出来なかったりと、目に見える欠点でもあれば一時の夢で終わったのだろうが、不幸なことに葉月は器用貧乏で、特別優秀ではないが不可もなくある程度の成績を取れるほどには何でも出来てしまった。
同学年の女子たちは時々話しかけては嬉しそうにするだけで、後は普通の友達のようなものだったが、後輩が出来てからが大変だった。
学生間の年上というのは、随分と大人びて見えるものだ。
キラキラした目で遠くから見つめられ、ひそひそと噂話をされては勝手に盛り上がられ、下駄箱にラブレターが入っていたこともあった。
葉月自身に同性間での恋愛に偏見はなかったが、話したこともなく自分に夢を見ている女の子の話を訊くのは、正直に言って苦手だった。
「先輩、いつもみんなに優しくて、かっこよくて、素敵で・・・・・・」
優しい。かっこいい。
どうしてここまで言葉が被るのだろうと思うほどに、みんな同じことを言った。
彼女らは、まさか葉月が過去の女性間でのトラウマがあり、それを繰りかえさん為にみんなにいい顔をしているとは思わないだろう。
しかし、夢を壊すことを心苦しく思う僅かな人の良さが出てしまい、薄らと微笑んで「ごめんね」と申し訳なさそうに短く言うに努めた。
(一緒に帰って欲しいって言われて一回だけ帰ったな~・・・・・・)
しかも、後にその話が広まって「私も私も」と希望者が増え、毎日交代制で知らない後輩と帰った。唯一の救いは節度ある彼女たちは、二回目を要求はしなかったことだ。
(この道とか、歩いたよな・・・・・・相手は緊張してるし、私だってそこまで話し上手でもないから無言でただ歩いてただけだったけど)
バスの窓からはちょうど高校の時の通学路が見えた。今の葉月なら、もう少し気の利いた言葉でもかけられるだろうが、あの頃は別れ際に「気をつけて帰ってね」と、言うことしか出来なかった。
それでも、彼女たちに冷めた様子はなかったので、多分あの年頃特有の不思議な憧れめいたフィルターでもかかっていたのだろうと思う。
だって、そうでなければ葉月などに夢を見ることがおかしいのだ。
葉月のあれらは、生まれ持った自身の姿ではなく、母によって作り上げられた仮初めであり、偽物だったのだから。
ああいう他のみんなとは違う、ちょっと変わった先輩なら、誰でも良かったのだ。
(それで傷つく私も私だけど・・・・・・)
バスで二十分ほど経てば、目当てのバス停に着いた。奈葉と共にバスに乗るときは、いつも姉が降車ボタンを押すと決まっている。
ここから十分程度歩かねばならない。大通りから一本入れば住宅街。見慣れた家々の景色を流し見て、葉月は荷物を抱え直した。
「あれ、お姉ちゃんその指輪は?」
奈葉の右手には、きらりと指輪が一つ光っていた。葉月が指摘すれば、奈葉は照れるようにはにかんだ。
「ああ、彼氏がくれたの。あんまりアクセサリーはつけないんだけど、これならシンプルだし飾るだけでもいいからって」
「へえ、よかったじゃん。ずっと付き合ってる人だよね?」
「そう。大学時代からのね」
「ふふ、相変わらず仲良しで」
左手じゃないんだな、とも思ったが、そのあたりは当人たちのペースもあるだろうと口にはしなかった。一度だけ会ったことのある奈葉の恋人は、穏やかだが芯のある人だ。
茶化しているうちに見慣れた我が家にたどり着いた。何を言わずとも奈葉が先導するので、葉月は後ろに従う。
「ただいま、お母さん」
「ただいま~あけおめ~」
廊下の先で、ひょこりと顔を出した母が言う。
「あら、おかえり。明けましておめでとう」
「明けましておめでとうございます」
続いて頭を下げて挨拶を済ませてしまえば、あとは実家の空気感で脱力した。
「先に荷物置いてくる? 布団は干しておいたから大丈夫よ」
「ありがとう」
母が奈葉の格好に目を止めて咎めるように目が歪んだのは見ないふりをした。姉自身も気づいてはいるはずだ。
奈葉が家を出た社会人一年目の年。急にこういう雰囲気の服装ばかりを好むようになった奈葉に、母はやかましく声を上げて大喧嘩をしたが、その後はなりを潜めている。
好ましく思ってはいないとわかっているが、それ以来口を出すことはしなかった。
(きっと、まだ学生の内だったら強制的に服でも捨ててただろうな)
わかってしまうのは、今までの嫌な経験則からである。
自分の手を離れた子供だから――人形遊びに適した時期を過ぎていたから許されたことだ。
二階に上がって自室に荷物を置く。奈葉も隣の部屋に消えていった。同じように大して時間も経たずに出てくるだろう。
一階のリビングに行けば、母はお茶を飲みながら正月の特番をテレビから垂れ流していた。
「ああ、そういえば先月の誕生日プレゼントありがとね」
「うん。まあ何を送るかはお姉ちゃんが決めたんだけど」
二つのマグカップを出した母は、そこに新しく紅茶を注ぐ。葉月と奈葉のものだ。
交互に急須から注ぎながら、母は深く頷いて「そうでしょうねぇ」と笑う。
「可愛いお皿くれたでしょ? 真ん中に小さな花が描かれてるやつ。色々種類あって可愛かったけど、葉月の趣味じゃないな~って。私が前にお皿割っちゃったって言ったのを葉月が覚えてるわけないもんね。奈葉はそういうのよく覚えてるし、気が利くから」
饒舌に母は呟く。満足げなのは、娘たちが自分の思った通りに動いたから悦に浸っているのだ。
可愛らしい花が好きじゃないのも、気が利かないのも、言ったことをすぐ忘れてしょうがないなって言われるのも、母が作りたい葉月であって、葉月自身じゃない。
どちらかというと、花や植物を見るのは好きだ。皿を割ったことも覚えていた。けれど、葉月は頷くことしかしない。
奈葉にはある程度手を引いて傍観している母だが、葉月は末の子だからかまだ過干渉な部分が残っている。
(まあ、覚えてるって伝えたところで、びっくりして珍しいこともあるものね~って言われて次の時には忘れられてる)
母と付き合うには、ある程度の諦めが重要だと知っていた。
「お昼どうする? 私何か作ろうか?」
リビングに顔を出した奈葉は、早々に言うとキッチンに向かった。しばらくして、
「オムライスとスープでいい~?」
と声が飛んできたものだから、葉月は少し声を張って肯定した。
「私も手伝おうか~?」
「え? いいよ。葉月料理できないじゃん」
「最近はちょこちょこやってるから少しは出来るよ」
マオと出会ってから二ヶ月以上は自炊に力を入れてきたのだから、多分足手まといにはならないはずだ。
「あら、自炊始めたの? いつもカップラーメンとか出来合いばっかりだったのに」
「う、うん・・・・・・やっぱりカップラーメンばっかだと身体に悪いしさ。そこまで凝ったのは出来ないけど」
「そうよね~身体のこと考えたらちゃんと栄養考えて自炊した方が良いわよね」
意外と朗らかに受け入れられて葉月は安心して奈葉の隣に立つ。なぜ、母の反応に怯えなければならないのかと虚しい自分の声が心中で上がった。
「今スープの方やってるからオムライスお願いして良い?」
「うん、わかった」
人参やピーマンたちはもう用意されていたので、包丁を持ってみじん切りにしていく。鍋をかき混ぜる奈葉が心配そうに葉月の手元を見ていることに気づいてはいるが、そこまで気を配る余裕がない葉月は、とりあえず切ることに集中する。
奈葉たちのようなスピードでは切れないが、ゆっくりと確実性を持って進めていく。
「へぇ、随分と上手じゃない」
横から飛び込んできた声に、冷ややかな声音を感じた。トンと手を止めて視線を上げれば、母が覗き込んでいた。
さっきと変わらず笑みを浮かべたままの顔で、はたから見たら親子の和やかな会話だ。
しかし、どこか平坦な声に隠された感情に、葉月はひやりと背筋に冷たいものが走った。
「まあ、お母さんやお姉ちゃんみたいにはいかないけどさ。ゆっくりだったらね、なんとか・・・・・・」
どうして自身のことを下げて言わなければならないのだろう。ただ、そうしなければ面倒なことになると、葉月の本能が警告を発している。
母は多少は溜飲が下がったらしい。
「そうよね~、葉月は不器用だしそんなすぐには上手くならないわよね。何事も練習と積み重ねよ」
そう言って母が背を向けて初めて、葉月は呼吸を再開した。
(何が正解だった・・・・・・? やり始めて失敗して、母を頼れば良かったのか?)
最初に受け入れたのも、それを見越してのことだったのか。
ぐるぐると巡る思考を打ち止めたくても思うようにいかない。こんな調子では包丁を握るのも覚束ない。
――何より
すでに家を出て距離を置き、母の元から離れたというのに葉月がまだ囚われていることだ。
面倒だと吐き捨ててあしらえればいい。しかし、実際にさっきの態度を振り返って思うのは「やってしまった」という悔恨の念だ。
しまったと葉月の頭で理解するよりも早く、身体が硬直して母の挙動から意識がそらせない。
「こっちは私がやるから、スープの味のほう見てくれる?」
するりと手から包丁が奪われ、流れるような動作で位置を入れ替えられた。気づけば湯気の立つ鍋が葉月の前にあった。
「お姉ちゃん・・・・・・」
「ほら、あんたの手つきやっぱり危なっかしいし」
口調は滑らかだが、葉月に視線もよこさぬ奈葉の顔は歪んでいた。皺の寄った強ばった顔はなにを思っているのか。
相も変わらぬ母に思うことがあるのか、成人してもなお母から怯える妹に苛立ちを寄せているのか。
手持ち無沙汰で、葉月は無心で鍋をかき混ぜる。
三人共に家に揃っていたときは、台所に立つのは母と姉の役目だった。後ろで一つに結んだ黒髪は動きに合わせてゆらゆらと揺れて、腰の位置でエプロンのリボンがひょこひょこと跳ねる。
ロングスカートの影で可愛らしいスリッパがぱたぱたと音を立てていたのをよく覚えている。
今の葉月の隣からは、それらは何一つ感じ取れはしない。
葉月だけが、昔のまま何にもなれずにそこにいた。
奈葉のようになりたい姿があるわけでもなく、しかし今のままは嫌だとどこかが悲鳴を上げる。何かが変わった気がしていた。けれど、結局葉月はどこへも行けず、何にもなれずに同じ場所で足踏みをして進んだ気になっているだけだった。
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