五話

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五話

 子供が闇の中を駆けていく。  まだあどけない柔らかな両足は、どたどたと重い足音でも響きそうなほどに力強く動揺を表している。  しかし、驚くほどに何の音も届いては来なかった。本当にそこに子供がいるのかと疑ってしまうほどの無音な足並み。僅かに低くなり始めた声だけが、子供の存在を証明している。 「どうして、どうして」  どれほど走り回ろうと子供は足を止めない。その顔には困惑なのか不安なのか、眉や目尻が力なく垂れ下がっていた。あれほど動き回っているのに、疲れは微塵も感じなかった。  右も左もわかない黒い世界で、その子供だけが生きていた。 「だれか、誰かいないの」  泣きそうな声に思わず手が伸びそうになったが、どうにも自分の身体は動かない。その間にも、子供はまた懸命な様子で足を前に出し、手を伸ばす。どこかにいると信じる誰かに向かって。 「どうして誰もいなくなっちゃったの」  それはどこまでも答えの出ない問いであった。子供はその理由を知る術がないから。誰も教えてくれることなく子供の前から姿を消した。  どれだけ同じ問いを繰り返そうと、答えてくれる人はいない。答えをくれなくたって良い。ただ、今の状況が変わるのなら誰だっていい。  不思議だった。子供のものと思われる感情が、水を吸うようにひしひしと感じられた。 「さむいよぉ・・・・・・」  ついに立ち止まってしまった子供が小さな手でその顔を覆った。掠れた悲鳴が闇に飲み込まれ、子供の顔が上がる。  その時になって初めて、暗闇しかない空間に浮かぶ赤い光に気づいた。  丸い二つの紅玉が、こちらに向かってゆっくりと流れて交わった。  小さな口が言葉を紡ぐ。しかし、それが音となって届くことはなく、壊れた機械のような軋んだ音が耳元でさざめいた。  その音は視覚に現れる。砂嵐のように子供の姿が消えた。ぐるっと回転するように世界が歪んだ。 「待って!」  目を開ければそこは自室だった。深く息を吐き出しながら上体を起こす。普段と変わりのない葉月の部屋だ。  自分の存在すら失いそうな闇はない。 「なに、今の夢・・・・・・」  朧気にしか覚えていない。泣きそうな子供がひたすらに走り回る。ただそれだけの夢だ。 ――それなのに 「どうしてこんなに苦しいんだろう・・・・・・」  朝の清々しく伸びる陽光とは裏腹に、葉月の目覚めは最悪だった。  ◇◇◇  マオは随分とスウェットが気に入ったらしい。  葉月は渡した日から、何度もこの部屋を訪れているが毎度律儀に着替えてくれている。  あの日は葉月が泣いていたこともあってか、次の時にはこちらの顔色を窺う様子もあったが、けろりとした顔で「ご飯何にしよっか」と言えば、あからさまに安堵の雰囲気を醸し出した。  そして、すぐに部屋の中を赤い視線が彷徨う。何かを探すその仕草にぴんときた葉月が 「寝室のベッドの横にあるよ」 「そ、そうか」  そわそわと落ち着かない様子で寝室に消えていった。しばらくすれば静かに扉が開いたものの肝心のマオの姿が見えない。  不審に思った葉月が火を止めて向かおうとしたとき、ひょこりとマオの麗しい美貌が飛び出てきた。  頭だけを出してマオは、葉月と眼が合うと大きく瞬きを繰り返して首を引っ込めた。どうやら見られているとは思わなかったらしい。 「マオー?」  言外にどうしたのかと声を投げれば、おずおずと小さな歩幅でマオが現れる。なんの変哲もないだるっとしたスウェット姿に、葉月は満足感で胸が膨れた。そして、その気持ちのままに何度か頷き「似合ってる」と笑いかける。 「楽でいいな・・・・・・そして、暖かい・・・・・・」  身にまとうそれの存在を確かめるように、細い指で自身の身体に触れるマオは随分と嬉しそうに微笑んでいて、葉月はそれだけで報われた気分になったものだ。  あれからベッド横の棚の一番上――そこの引き出しはマオ専用になっている。  最初は人の物を勝手に開けることに抵抗を示していたマオも、今ではすっかりと慣れたものだ。葉月のアパートに来ては最初にその引き出しを開けて中を見ては表情が緩む。  その横顔を盗み見るのが最近の葉月の楽しみの一つである。  しかし、すでに二月下旬。まだ寒い季節ではあるが、時間はあっという間に過ぎてしまう。 (見られるうちに堪能しておこう)  そんな葉月の小さな下心も知らず、マオは今日もいそいそと着替えに向かった。 「今日はお鍋です」 「おなべ」 「よく考えたら鍋やってなかったからさ、冬が終わっちゃう前にと思って」  と言っても、スーパーで買ってきた出来合いの鍋である。一人用のアルミ鍋にはすでに具材が敷き詰められており、付属のたれと水を入れて火にかければ完成だ。  読み終えた雑誌を鍋敷き代わりにしてテーブルに並べる。湯気の立つ二つの鍋を、マオは興味深そうに見ていた。 「今日買ってきたのはちゃんこ鍋で、こっちが醤油でこっちが塩味。好きに食べて」  これだけじゃお腹が空くかな、と茶碗に白米をよそって出せばマオは律儀に両手で受け取った。そして、そうしたらいいのかと迷いのある眼が葉月を見る。 「味が違うから、交換こしよ。マオは最初にそっち食べて、あとで私のと変えよ」  手前にあった醤油を自分の元に引き寄せて、塩はマオの方に寄せてやる。 「熱いからね」と前置きしたが、マオは口に入れようとしたところでハッと箸を遠ざけて口を噤んだ。想像していたより熱かったらしい。  少し冷めた一口が、そろそろと口に消えていく。ゆっくり咀嚼して飲み干したとき、パッと顔を赤らめた。それだけで葉月はマオが気に入ってくれたのだとわかる。  続いて自分も食べ進めた。 「もうさ、半年経つんだね。なんかずっと一緒にいる気分・・・・・・半年しか一緒にいないんだな・・・・・・」  ほぉと口内に籠もる熱い空気を吐き出して呟く。 「前まで家に帰ってきたって一人だったのに・・・・・・マオがいると何だかあったかいや」  鍋に下ろした視線のまま、小さく進める食事。二人の間に流れる空気は静かで穏やかで、そして鍋から沸き立つ湯気で暖まっていく。 「・・・・・・俺も。葉月の家に来るといのちを感じる」 ――いのち・・・・・・ 「ああ~生きてる~! みたいな?」  ぐっと伸びをするように両腕を上げてからマオを見る。 「ふっ、そうかもな・・・・・・」 (あっ)  伏せられた瞳が緩む。長く細い睫毛がその白い肌に影を落としていた。 (なんか、寂しそう・・・・・・?)  マオは微笑んでいるはずなのに、葉月は漠然とそう思った。
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