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一話
大学と同時に家を出た。そして家に戻ることはなくそのまま就職。
実家には母が一人で残っているけれど、盆と正月以外は顔を出すことはない。その年に二度の機会ですら、姉が帰らなければきっと葉月は帰らないだろう。
「大丈夫? 私が取るよ」
「あ、ありがとうございます」
棚の上の段ボールに手を伸ばしていた後輩―五藤を背後から支えて場所を入れ替える。女性の中でも背の高い部類に入る葉月にとっては、さほど苦もなく両手で段ボールを抱えて「はい」と渡す。
資料の入ったそれは、後輩の彼女には少し重かったらしい。僅かに重心をふらつかせながらも受け取ってくれた。
「葉月先輩、ありがとうございました」
「気にしないで。あそこに置いた人が悪いんだし、私だったら届くからさ」
「でも、いつも助けてもらってますから・・・・・・」
それは、彼女が葉月の受け持つ後輩だからだ。五藤たちの代が入社してから半年。肌寒さが目立ち始めて人々がいそいそと厚着を始める頃合いになった。
葉月も数年前は彼女のように担当の先輩に世話になったものだ。
その恩返しというわけではないけれど、まだ慣れない後輩の手助けをするのは普通のことだろう。
そして、葉月にとっては幼少の頃からの癖のようなものでもあった。
「あの、もしよければ帰りにご飯行きませんか? 実は割引券をもってまして・・・・・・何枚もあるので消費を手伝っていただけると助かるのですが」
よたよたと段ボールをなんとか片手で支えながら、五藤はポケットから小さな紙切れを取り出した。
存在を主張しやすいように大きな太字とカラフルな背景のそれに書かれていたのは、会社の最寄り駅近くにあるラーメン屋のものだ。
小さくてふわふわと髪を揺らす彼女には、なんだか不釣り合いなものに見えた。
もしかしたら、葉月がそこの常連であることを社内の誰かから聞いたのかもしれない。
せっかく誘ってくれた彼女に悪いとは思いつつも「ごめんね」と素直に口に出す。
「今日は早く帰らないといけなくて・・・・・・ほら、同期の子たちを誘ってみたら?」
「そうなんですか・・・・・・わかりました。ちょっと声をかけてみます」
彼女は律儀に頭を下げてから去って行った。
残念そうに下がった目尻が葉月の罪悪感をちくちくと刺激する。
「よし、あと少し頑張るか」
気を取り直すように伸びをしながら自身の机に戻る。仕事は面倒だと思うけれど、そのあとに待っていることも億劫だった。
ついこの間までは夜の七時近くまでは明るかったはずなのに、もう会社を出る頃には随分と深い闇が空に広がっていた。
会社から一歩出て息をこぼす。吸い込んだ空気は冷たく喉に張り付いた。シャツの一番上のボタンだけを外した首元が肌寒さで皮膚を震わせる。
「ラーメン食べたい・・・・・・」
昼間に見たラーメン屋の割引券を思い出す。名残惜しい。本当なら食べたかったが、今日は姉との約束があったのだ。
十月の下がり始めたばかりの気温では、吐いた息はまだ白くはならない。
自身の視界には想像したような白い空気は広がらない。なんだか無意味なことをした気になって寂しくなった心のまま帰路についた。
「あ、もしもしお姉ちゃん?」
ジャケットを脱いでシャツを腕まくりした状態で缶ビールを開ける。
風呂に入ってからにしようとも思ったが、スーパーでつまみを買っていたら約束の時間になっていたのだ。
『お疲れ~』
「おつかれ。どうせ今度のお母さんの誕生日のことでしょ?」
『そう。今年は何にしようかなって』
「いつも通りお姉ちゃんが選んでよ。お金は出すから」
『やっぱそう言うよね。わかった、決まったら連絡するわ』
「よろしく」
静かになったスマホを机においてぐびっとビールを大きく飲み下す。
「毎年毎年、律儀に訊くなぁ」
――どうせ私がなんて答えるか知ってるくせに。
十二月は母の誕生日だ。お小遣いをもらって自分のお金が持てるようになった子供の頃から、姉と一緒にプレゼントを渡していた。それは今でも変わっていない。
送りたくないと思うほど嫌ってはいないけれど、プレゼントを選ぶことを楽しめるほど好きでもない。
それに、葉月には母がどういったものを喜ぶのかがわからないのだ。
放任主義というものだったせいか、友達と外で駆け回っていた記憶はあっても、母と団欒するような時間はあまりなかった。
それに、母も自分の好きなものの話などはしなかったと思う。
――奈葉はフリルのついたスカートで、葉月はショートパンツにしようね。
自分の子供たちに「好きにさせるもの」の話は良くしていたけれど。
葉月だって姉に任せてばかりで申し訳ないとは思う。ただ、どうしたってあの人に送るものを選べる気がしなかったのだ。
姉が快く引き受けることを知っていて、毎回任せてしまっている。
葉月にあの母へのプレゼントを選ばせるのは酷だと思っているのだろう。そして、葉月はそれを利用して姉に負担を押しつけている。
きっと葉月よりも姉の方が母のことを嫌いだ。姉はそんなこと欠片も思っていないが。
背後の壁に設置された給湯器から、軽快なメロディが鳴り響いた。
・・・・・・お風呂が沸きました。お風呂が沸きました・・・・・・
湯張りが終了した知らせが届く。葉月は残った少量のビールを一口で押し込んで、ぺたぺたと裸足で脱衣所に向かった。
それに気づいたのは風呂を出て買ってきた惣菜を暖めているときだ。
「ん・・・・・・?」
具体的に何が、という明確な理由はない。ただ、部屋の中の空気が変わった気がした。暖め終わった惣菜をリビングのテーブルに置き、きょろりと見渡す。
当たり前だが部屋に異常はない。
だが、不安に煽られて念のためと寝室の扉を開けた。
本来なら、いつも通りベッドのあるこぢんまりした部屋が静かに佇んでいるはずだ。
――しかし
それを捉えた瞬間、葉月は考えるよりも早く逃げようと本能で足が動いたらしい。しかし、テーブルにぶつかってこけた。足から痛みが上ってくるが、声を上げることもなく、暗闇で佇んでいた存在を見つめていた。
「あ、あなたどうやってここに・・・・・・?」
尻餅をついたまま上擦った声で問う。驚きと恐怖で腰が抜けたのだ。
だって、一人暮らしのアパートに自分以外の人間がいるはずがないのだから。
このアパートは四階建てで、葉月の部屋は三階の角部屋だ。どうやって侵入したというのか。よじ登れるような木々だって近くにはない。
「あの、なんでここに・・・・・・? そんなにお金なんて持ってないですけど」
沈黙が続くことが耐えきれない。からからになった喉で、葉月は問いを繰り返した。
クローゼットの前に佇む人影が動く。ひっと情けない悲鳴が漏れた。
「これは・・・・・・?」
低く落とされた声は、なぜか戸惑いを宿していた。しきりにあたりを見渡す様子に、葉月も段々と冷静さを取り戻していく。
「あ、あの・・・・・・?」
葉月の声に男が反応する。はっと振り向いた彼の瞳が困惑に揺れていた。ゆっくりと足を進める男の姿が、照明に当たって少しずつ露わになる。
まず、細身の黒いパンツに覆われた長い足が。そして白いシャツ、黒いジャケット。
強盗のくせに随分とフォーマルな格好をしているな、と場違いな感想を持つ。
そして、最後に光を受けた男の顔に、葉月は息をのんだ。
呼吸を忘れたようだった。時が止まったように、男から目が離せなかった。
照明を反射するほどの白磁の肌。それと対照的なほどに深い黒を持つさらさらの髪。その美しい貌の中でひときわ存在感を放つ深紅の瞳。
異様な格好なのに、それが男にはひどく似合っていた。むしろ、そこらを歩いている普通の男の私服では、彼の貌には釣り合わない。
「お前は・・・・・・」
男が声と共に手を伸ばした。放心していた葉月に恐怖が蘇る。
「い、いやッ!」
男の手を振り払うように、葉月は腕を動かした。
「あっ! いった・・・・・・」
しかし、葉月は腕に走った痛みに身体が蹲る。何が起きたのかわからなかった。
ふれあう直前にバチバチと二人の間に小さな火花が散った。それだけは見えた。
荒い息のまま胸に抱えた自身の腕を覗く。右手には焼けたような傷跡が出来ていた。じんじんと鈍い痛みが伝わり、皮膚の表面がひりつく。
あの男は?と葉月が顔を上げれば、なぜか男は怯えたように後ずさっていた。中途半端に伸ばされた手は鋭い爪を宿しており、本来は恐怖を抱くはずなのに葉月の困惑は強まる。
(なんであんたがそんなに怖がってるの・・・・・・?)
赤い瞳が見開かれ、小さく開けられた口が戦慄いている。戸惑いを含んだ手は、引こうか伸ばそうかと迷うように指をさまよわせる。
「あの」
痛みに耐えながら身を起こす。葉月の動きに男がまた一歩退いた。光が届かなくなり、男の顔が隠れた。それを阻止するように葉月は思わず左手で男の手を取った。
男の身体が跳ねた。しかし、葉月はその動揺にも目もくれず暗闇で光る二つの赤い宝石を見据えていた。
「あなた、何者なの」
「・・・・・・っ」
男は葉月の意図が読めないのか怪訝そうに眉を中央に寄せた。しかし、数秒の沈黙の後に静かに口を開いた。
「・・・・・・おれは、魔王だ」
怯え、困惑、警戒・・・・・・。様々な感情の滲むその声に、今度こそ葉月は放心して口を間抜けに開け放った。
◇◇◇
「えっと、じゃあ貴方は別の世界の魔王ってことでいいんでしょうか?」
そろそろと葉月が向けた視線の先で、同じように身を固くした自称魔王の男を映す。男は葉月の言葉にこくりと首を揺らした。
それっきり黙りこんでしまった男に、葉月もどうしたらよいのかわからない。
(コスプレして強盗って訳じゃなさそうだけど・・・・・・ゲームや漫画じゃないんだし、魔王ってなに? 本当だとして、なんで私の部屋と魔王さまが繋がってんのよ)
内心では慌ただしく喚き散らしているが、そのまま口に出すことも出来ない。また、いつさっきのように攻撃されるかわからないのだから。
「あ~その魔王さまがなんで私の部屋に・・・・・・?」
「城で扉を開けたらここにいた」
「は・・・・・・?」
つまりは魔王にとっても不可抗力だったと・・・・・・?
じゃあ、出会ったときの戸惑いがちな様子は本当に状況を理解していなかったのか。とりあえず、異世界侵略のための第一歩とかではなくて良かった。
だが、安心するのはまだ早い。穏便に帰っていただくまでは緊張を緩めてはならない。
「その、帰り方とかって」
おずおずと申し出た葉月の声を遮り、ぐーっとくぐもった音が聞こえた。
――はて?
聞き覚えのある音だ。主に残業後の帰宅途中で自身から鳴る音によく似ている。しかし、いくら葉月の欲望に忠実な腹とてこんな状況で暢気に空腹を主張したりはしないだろう。
そうなると答えは自然と行き着く。葉月の目は素直に心当たりへと向かった。
そして、その人物が目を開いてぱちぱちと瞬かせているからきっと己の考えに間違いはない。
(魔王でもお腹なるんだ)
強ばった身体から力が抜けた。
「ご飯、食べますか・・・・・・?」
さっきと同じように彼の頭がゆっくり振られ、葉月は台所に向かおうと腰を上げる。
「いっ」
立ち上がるためにテーブルに手をついて痛みが走る。
怪我をしていたのを忘れていた。
(これって家で対処できる程度を越えてるよね?)
この時間にどこか病院はやっていただろうか。
葉月が頭を悩ませていると、男がこちらを窺う。
「触れてもいいか」
「あ、はい」
咄嗟に許可を出してしまった。自分の危機感は死んでいるかもしれない。
頷いた手前では撤回することも出来ず、葉月はばくばくと心臓を鳴らしながら男の動きを凝視する。
葉月の心配をよそに、男は随分と優しい手つきで葉月の傷ついた腕を取った。そして、もう片方の手を傷の上にかざす。
葉月の喉がごくりと鳴った。
男も緊張した面持ちだった。
また、あの時のように不可思議な現象で攻撃されると葉月は反射的に身構えた。しかし、葉月の想像とは裏腹に、男の掌からは穏やかな緑色の光が灯され、それに触れた傷口が少しずつ治癒されていく。
しばらく経って男が手を離したときには、葉月の腕はまっさらな肌に戻っていた。先ほどまで痛々しい傷があったなどと思えないほどに。
「痛みは」
「ぅえっ? な、ないです」
「ならいい」
そう言って男は立ち上がった。細身の身体のせいかそれほど威圧感は覚えなかったが、こうして下から見上げると妙な迫力があった。ほとんどは顔の良さのせいだと思う。
「ご飯はいい・・・・・・邪魔をした」
目の前の白い肌に落ちる睫毛の影を眺めているうちに、さっさと彼は寝室の方に移動する。慌てて葉月が追いかける。
男は何故かクローゼットの扉を開けて足を踏み入れようとした。
「いやいや、ちょっと何して!」
葉月の制止を気にもとめず、男はそのままクローゼットに消えた。後を追って乱暴に開け放つ。
そこには、葉月の服にぎゅうぎゅうに埋もれた魔王の姿が見えるはずだった。
「へっ?」
おかしい。なぜクローゼットから明かりが見えるのだ?
このクローゼットは大して奥行きもない。なのにどうして男はあんなに遠くに立っている?
「今日一日はその扉は開けない方がいい。しばらく経てば戻るだろう」
テレビの中でしか見たことのない豪華なシャンデリアから零れる光に照らされながら男が言う。
葉月の身体から力が抜けた。ふらっと倒れるように尻餅をついた。その反動でクローゼットが閉まる。
暗い部屋で、見慣れたクローゼットを見上げる。今、目に収めた光景が夢のように感じた。最後に見た男は、葉月に手を伸ばそうとしていたように見えた。
秒針が何周したかわからない頃、葉月はよろよろと起き上がった。
(ゆめ、うんきっとそう・・・・・・夢だ)
暗示をかけるように夢だ夢だと繰り返す。なんとか食事と風呂を済ませ、早々に寝た。
あのクローゼットと同じ部屋で寝るのも落ち着かないので、掛け布団だけ引きずってリビングで丸まった。
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