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二話
「最悪、ズボンの裾濡れた」
パンプスを脱いでスーツのパンツの裾を指で絞ってみればポタポタと水が滴る。
昼頃までは青い空が広がっていたくせに、陽が傾くごとに雲が多くなり、葉月が会社を出る頃にはぽつぽつと雨が降り始めていた。
電車に乗ってうたた寝をして、最寄りで降りた時には土砂降りだ。
傘を差してはいたが大粒で勢いのある雨は、地面と当たってばちゃばちゃと跳ね上がる。そのせいで下半身は随分と濡れてしまった。特に足元はひどいものだ。
「これで明日が会社だったら気分最悪だったな」
まだ翌日が土曜で休みだと思うと多少心に余裕が生まれる。
さっさと風呂に入ってしまおうと着替えを取りに寝室に向かう。そして、暗闇の中に見えた人影に、葉月は盛大に後ろに転がった。
「な、なんで」
震える指で示せば、その先に佇む彼は罰が悪そうに目を伏せた。
「わからない、また繋がってしまった」
つい一週間前にまみえた美しい男が存在していた。
「まさか、また・・・・・・?」
先日のように、テーブルを挟んで向き合う男女が二人。かたや濡れたスーツで、もう片方は角を生やした上質な布に身を包んだ美しい男。
先日、葉月に魔王と名乗った彼は頷く。それに葉月は長く重い息を吐き出した。
「どうしてうちと繋がっちゃうんでしょうか」
「・・・・・・わからない」
考える素振りのあとに男は首を振った。
異世界で魔王をやっているぐらいだから何か知っているかとも思ったが、葉月の期待には答えてくれなかった。
(どう考えても向こうが原因だよね? 魔王とかがいる世界だし、多分魔法みたいな不思議な現象もあるんだろうし)
男の言葉に嘘が紛れていようと葉月にそれを確かめるすべはない。ただ、なんとなく彼の言葉に嘘はない気がした。
ただの勘でしかないのだが。
「帰る」
「ああ、はい」
またクローゼットを開けるなと言うことだろう。しかし、それならなぜ此方に来ていたのだろうか。
葉月は見送るように男の背中を追いかけた。
(何回見ても魔王が私のクローゼットに入るのシュールだな)
今日も一日クローゼットを開けられないのかとうんざりしていれば、先週と同じく空腹の知らせが響く。
もちろん、葉月からではない。
ぴたりと男の動きが止まる。制止した彼の後ろ姿に葉月はいたたまれない気持ちになった。
「あの、食べていきます?」
そのまま放っておくことも出来ず、こちらから声をかけた。男は葉月とは目を合わせずに一度だけ頷いた。
(とは言ったものの大したものは出せないんだけど)
本当なら、休みに入る前――金曜日である今日の帰りに買い出しを済ませるはずだった。しかし雨のせいですっかり忘れており、葉月の家の冷蔵庫にはほとんど何も入っていないのだ。
(ラーメンにしよ)
二人前入りの味噌ラーメンがあった。卵と小松菜をトッピングで入れれば十分だろう。
本当なら叉焼も欲しいが贅沢は言えない。この雨の中で買いに行くのも面倒だ。
鍋に水を入れて火にかける。沸騰するまでの間が手持ち無沙汰だ。
「あ~、食べられないものとかってあります?」
「いや・・・・・・」
俯いたまま首を振られた。
「えっと、あっちの世界ってどんな風になってるんですか? 魔王とか言うぐらいだからなんか勇者とかそんなのもいたりって、はは・・・・・・」
明らかに話題を間違えた。どうして魔王を名乗るものに勇者の話題を出した。
どの創作物でもそこは敵対関係にある。そして、話のほとんどは勇者が魔王を倒してハッピーエンドだ。自分を滅ぼす者の話題で盛り上がる訳がない。
殺されるかも、とコンロの火を見下ろしながら葉月は悟った。
(いや、でももしかしたら勇者がいない世界かもしれないし)
ちらっと見れば、男が赤い瞳を丸めて葉月を見ていた。どこか顔色が悪く見える。
これは完全に地雷だ。
沸騰した鍋に麺を突っ込む。男は反応を示した割には葉月に何も言ってこない。その沈黙が更に恐怖をあおる。
しばらく経てばやっと男が口を開いた。
「なぜ、勇者のことを知っている」
「こっちだと勇者と魔王はセットみたいなもので、よく小説とかに書かれるんですよ。大体が悪いことをする魔王を勇者が倒す、みたいなお話ですけど」
尻すぼみになるのも仕方がない。鍋をかき混ぜながらびくびくと男を見るが怒り狂う様子はない。
(知ってたことに驚いただけ?)
どんぶりを二つ出してスープを作る。付属の味噌を溶いてそこに均等に麺を割り振る。別口で茹でておいた小松菜と卵を適当に上にのっけて完成だ。
「こんなものしかなくて申し訳ないんですけど、このメーカーのは美味しいので味は保証します」
恐る恐る魔王の前にラーメンを置く。返事を待たずに葉月は自身の分のラーメンをすすり始めた。
「勇者と魔王は」
「ん?」
「魔王を倒した後、その世界はどうなる」
ちゅるんと麺を口に吸い込み、咀嚼する。早口でかみ砕いて飲み込んでから葉月は悩ましく声を上げる。
「どうなんだろ・・・・・・大体魔王を倒すのが最終目標で、それで世界は平和になりました。めでたしめでたしって感じだし・・・・・・そのあとかぁ」
あいにくと葉月はその後を描いた作品に心当たりはなかった。昔から本とはあまり縁がない。
「いや、いい。つまらないことを訊いた」
「はあ・・・・・・まあ別にいいですけど」
勝手に吹っ切れたらしい。今度は箸を片手に苦戦し始めた。しきりに葉月の手元を見て真似ようとしているがうまくいかない。
「こっちなら食べやすいです?」
「ああ、ありがとう」
台所から持ってきたフォークを差し出す。するとフォークのことは知っていたのか安堵共にほんのり顔が和らぐ。そうして器用に麺を巻き付けてちまちまと食べ始めた。
「うまい・・・・・・」
「この会社のやつはお気に入りで家で作るときはずっとこれなんですよ。まあお店で食べるのが一番美味しいですけど、それとはまた別枠ですよね」
「なんという料理なんだ」
「ラーメンです。ちなみにこれは味噌です。他に醤油とか塩味とかいろいろ種類ありますよ」
「らーめん・・・・・・そうか」
たどたどしく呟く姿は何だか可愛らしい。子供が初めて知る言葉を自分に染みこませるように言う独り言みたいだった。
そのあとは静かに食べ続けている。名前を尋ねるぐらいだし、気に入ってくれたらしい。
気づけば二人揃って完食だ。食器は水に浸しておく。寝る前にまとめて洗おう。
「物を食べるのは久々だった」
「え・・・・・・?」
「食べる必要がないからか、空腹を感じることもない。なのに、ここに来ると忘れていたものを思い出すように急に腹が減る」
赤い瞳は凪いでいた。しかし、その奥に隠しきれない動揺が見て取れた。
きっとこの言葉も葉月に聞かせるためのものではない。でも、返事をしてあげたかった。
「よかったですね」
果たして、彼にとって良いことなのか葉月にはわからない。もしかしたら煩わしいと思っているかも。
でも、「ああ」と肯定した彼の表情が随分と人間臭くて穏やかなものだったから、間違ってはいなかったのだと思う。
「くしゅん」
鼻の奥にむずがゆさを覚えた。よく考えたら濡れたスーツのままだった。
「俺はもう帰る。早く風呂にでも入って暖かくして寝ろ。明日には元に戻っている」
「あ、はい」
気を遣ったのか葉月のくしゃみを合図に男は帰っていく。クローゼットに消える時、最後に葉月を見やって男が微かに笑った。
「馳走になった」
それを最後に扉はぱたりと閉じられた。部屋にはもう葉月しかいない。
「美形の破壊力やば・・・・・・」
ずるずると壁伝いに座り込む。美しさで死人が出ると思ったのは初めてだった。
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