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第一章 分かり合うために 1話 赤の他人
その声は、まるで学校全体に響いているのではないかと錯覚するほど力のこもった声で、俺の心臓を鋭く貫いた。
俺は突然の声に驚き、思わず足を止めてしまう。
明らかに、俺の声じゃなかった。
今通ってきた廊下には誰もいなかったが、声は上から聞こえてきた。
ということは……
俺は顔をしかめそうになりながらもなんとか抑え、声のする方へ視線を向ける。
すると、ある一人の視線と俺の視線が交差した。
俺が追試をしていた教室で出くわした学年一可愛いと噂されている女子生徒。
……斉藤未來だった。
端正に整えられたショートボブは夕日に照らされて淡く光っている。
僅かにブルーの入った大きい二重の瞳は、そこだけ見ると外国人に間違えられそうだが、丸い童顔の顔、小さく低い鼻、そして薄い唇が、彼女が日本人であることを認識させた。
透き通りそうな程に綺麗な肌は、恥ずかしさ故か、ほんのり赤く色づいている。
顔立ちも良く、彼女が学年一可愛いと噂されていたことも納得だった。
……けれど。
俺は返事を待っている彼女に無言を返し、再び足を動かす。
「……ちょ!?なんで何も言わないの!ちょっと待ってよ!」
彼女の怒号が後ろから浴びせられるが、そんなことも気にせず、俺は昇降口に行き靴を履いて、学校を後にするのだった。
「……ねぇ。なんで何も話さないの」
眉をひそめながら、恨みの籠もった声で未來はつぶやく。
俺が学校を出てからもずっと、未來は俺の後ろについて来ていた。
そして今に至るまでずっと、未來は俺に対してつぶやいていた具合だ。
俺はため息をついた後、足を止めて未來を睨みつける。
「なんでお前は俺についてくるんだ」
「なんでって……そりゃあ、貴方が私の告白の返事を返してくれないからでしょ?」
俺について来ることに疲れたのか、未來の声には覇気がなくなっていた。
さっきまで未來の声が耳元でキンキン鳴っていたので、俺としてはありがたい限りだが。
「なんで返事なんか返さなくちゃいけない」
「はぁ?返事は普通返さなくちゃいけないものでしょ!」
俺の言葉が気に障ったらしい。
さすがの未來も今回は声を張り上げなくてはいけなかったようだ。
未來のその反応に俺はまたため息を返しながら言った。
「俺らはどういう関係だ?」
「どういう関係……?」
怪訝そうに首を傾げる未來を気にせず、俺はさらに畳み掛ける。
「赤の他人だろ?」
未來は俺の声にうめき声を上げる。
「俺らはさっき、あの階段で出会った。それまでは全く面識のない赤の他人だ。今だってそうだ。たった一回の告白だけで、この関係が覆ることはない。お前だってこれくらい分かっているはずだ」
「……なんで」
「あ?」
なんと話したか聞き取れず、俺は低い声で聞き返す。
「……なんで貴方は、そこまで返事を渋るの?ダメならダメって言えばいいのに」
俺はその声に、一瞬眉をひそめてしまう。
「……ダメだ」
俺は未來から視線を外しながら言った。
「今じゃもう遅い!ねぇ、なんで?なんで貴方は返事を渋ったの?」
未來は俺にジリジリと歩み寄ってくる。
「……特に、何もない。ただの偶然だ」
「偶然って……」
「とにかく、俺はお前とは口を利かない。赤の他人に話すことなんかないんだ」
そう言いながら、俺は再び足を動かす。
「……待って」
さっきとは打って変わった静かなその声に、俺は思わず足を止めてしまった。
「最後に聞かせて。なんで貴方は今になって口を利いてくれたの?」
後ろから聞こえてきたその問いに俺は、
「……家までついて来られたら面倒だからだ」
と、冷たく返した。
「お前のその食い下がれる勇気だけは褒めてやるよ。だけどお前の容姿がいいからって、全ての男が振り向く訳じゃない。そこんとこ、ちゃんと覚えておくんだな」
「違う!私はそんな遊び感覚で告白しているんじゃない!本当に貴方のことが好きだから……」
「俺のことが好き?」
俺は未來の声を遮るように声を上げ、振り返って未來に視線を合わせる。
「赤の他人で、さっき出会ったばかりのお前が俺のことが好きだと?いい加減にしてくれ。」
俺は冷たく、低い声で未來を突き放す。
「お前に俺の何が分かる?ただの赤の他人でしかないお前に!」
そこまで言ったところで、俺は失言に気づく。
さっきまでの荒らげた声を抑えて、
「もう二度と俺に話しかけるな。絶対だ、いいな?」
静かに言い放った俺は、帰路をたどった。
「……貴方って、優しいんだね」
後ろから聞こえた未來のそんな声に思わず、
「何をどう捉えたらそんなことが言えるんだ」
顔をしかめながらそうつぶやいていた。
そうして俺は今日、初めて女を振った。
それからはずっと憂鬱だった。
心が痛い。
俺だって、あんなに言って未來を突き放したくはなかった。
できることなら、俺だって普通に恋愛ぐらいしたい。
……でも、できない。
帰路をたどる足は枷がついたように重かった。
そうして歩いて、歩いて、歩き続けて……
俺の家があるマンションへとたどり着いた。
早く帰って寝よう。
そう思いついた俺は、マンションのロビーへ入ろうとした。
その瞬間。
「うわっ!」
何者かに後ろから鍵をスられた!
そのことを瞬時に判断した俺は、思い切り踵を返す。
するとそこには……
「……斉藤未來」
俺は忌々しげにそうつぶやく。
「なんでフルネーム……」
目の前にいたのは斉藤未來だった。
俺が散々冷たい言葉を突きつけた後に振ったあの女。
「なんでここにいるんだ」
そこまで言ったところで、俺は気づいてしまう。
『……家までついて来られたら面倒だからだ』
俺の声が、頭の中で反芻する。
未來がさっき俺のことを優しいと言ったのは、こういうことだったのか……
俺が頭を抱えそうになっていると、
「このまま引き下がれるほど、私のプライドは低くないんだよっ」
未來はそう言い放って、舌を覗かせながらマンションのロビーへと入っていく。
「おい、ちょっと待てよ!」
俺も未來を追うようにしてマンションへ入っていった。
いや、どうやってあんな華麗に鍵なんかスれたんだよ……と、そんなことを思いながら。
「……うわぁ、意外と広いところに住んでるんだね」
俺の家の中を見渡しながら未來は言う。
「意外とってなんだ……意外とって」
先程、未來に家に侵入された。
しかも未來は俺の家がどの階にあるかなんてもちろん知るわけもなく、1階から手当たり次第に探していった。
このマンションは8階建てであり、俺の家のある階は6階。
そこに行き着くまでに、未來にマンション内を振り回されたため疲労困憊である。
そして未來は、あろうことかスった鍵で勝手に家に上がり込み、今に至る。
犯罪だと思うのだが、通報してもいいだろうか?
早く出ていってほしいと、叶わないであろう願いを俺は頭の中で切実に訴えるのだった。
「なんでこんなところまで来たんだ。さっさと帰れ」
玄関の方を指差しながら、俺は一応訴えておく。
「……帰らないよ?」
そんなことを言う未來に俺はため息をついた。
大体予想はできていたが、いざそう言われるとやはりきついものがある。
「だって、私はここでやることがあるんだもん」
「……やること?」
訝しみながら俺はその言葉を反芻させる。
「言ったでしょ。このまま引き下がれるほど、私のプライドは低くないって」
「何度やったって結果は同じだ。俺はお前とは付き合えない」
「別に、今はそれでいいよ」
「今は?」
俺は言葉をまた反芻させた。
「いつか絶対振り向かせて見せるんだから」
家の中を見回していた未來は俺の方に向き直ると、白い歯を見せて笑った。
「……お前がそこまでする理由はなんだ。赤の他人のお前が、なんでそこまでできる」
「そんなの、理由は一つに決まってるでしょ」
未來は一拍を開けて、再度口を開く。
「貴方のことが好きだからだよ」
俺はその答えに思わずため息をついた。
今日は何回ため息をつけばいいんだと、心の中でそうつぶやきながら。
「だから、お前に俺の何が分かるんだよ。一回も喋ったことがないし、顔を合わせたことすらない」
「それでも、貴方のことが好きなんだよ」
俺のセリフを引き継ぐように、未來は言った。
「……意味が分からない」
「分からなくていいよ。いずれ分かるから」
「……もういい」
この状態で話していても埒が明かないと思った俺は、ここで話を切る。
「で、お前はいつになったら出ていってくれるんだ?あんまり他人を家に長居させたくないんだが」
「もう。そうやってまた他人呼ばわり」
しかめっ面を見せた未來は、リビングにあるソファに腰を掛けた。
「ちょ、おい」
「しばらくはここに居させてもらおうかな。今日、お父さんやお母さんは帰ってこないんでしょ?」
「なんでそのことを……」
両親は出張のため、今は海外に出掛けていて家を留守にしている。
少なくとも数週間は帰ってこない。
「だったらここにいてもいいでしょ?少なくとも私たちはもう赤の他人じゃないし」
「何を言ってるんだ。俺らは紛れもなく赤の……」
「どうせなら、ここで泊まっていこうかな?」
「……」
俺のセリフに被せるようにそんな馬鹿げたことを言った未來に、俺は言葉が出なかった。
「赤の他人はここまで私のお喋りに付き合ってくれないよ。だから、私たちはもう赤の他人同士じゃない。強いて言うなら、友達ってところかな?」
未來はソファから腰を浮かせて立ち、俺の周りをうろつく。
「俺らは友達じゃない」
「友達でもなくて、赤の他人でもない。だったら、この関係って一言で表すとどうなるかな?」
「……知るか」
「だったら友達でいいんじゃない?少なくとも、もう赤の他人ではないでしょ?」
俺は何回目か分からないため息をつく。
「……勝手にしろ」
俺がそう言い放った瞬間、未來の顔に明るく花咲くように笑みが浮かんだ。
「うん!勝手にさせてもらうよ!」
未來は明るい声でそう言った。
「とりあえず、今日はもう帰ってくれ。疲れてるんだ」
「えぇー、まだここにいたいんだけど。っていうか、なんで疲れてるわけ?」
「お前のせいだろ」
「私のせい?」
俺はそこで、一際大きなため息をついた。
「お前、絶対に分かってて言ってるだろ」
「……バレちゃった?」
舌先をちらつかせながら、未來は唇に笑みを浮かべる。
「お前がそんな天然じゃないってことくらい、俺にだって分かる」
「あっ!だったらもう友達だね!」
未來は俺の顔を覗き込んでくる。
予想していなかった未來の声に、俺は思わずうめき声を上げた。
「それ以上ふざけると、本気で叩き出すぞ」
俺は未來を睨みつけながら低い声で言った。
「おぉー怖い怖い」
そうつぶやきながら、未來はまたソファに腰を下ろす。
「まぁ、何もしないでただ居座るのも申し訳ないから、夕御飯くらい作ってあげるよ」
「誰目線で物を言っているんだ、お前は」
「でも、ありがたいでしょ?」
その問いかけに俺は、
「……感謝ぐらいはしておいてやる」
と、未來から視線をそらしながら言った。
「素直でよろしい」
未來はそう言うと、台所に向かう。
その後ろ姿を俺は目で追いながら、再度ため息をつくのだった。
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