7話 独り同士

1/1
前へ
/12ページ
次へ

7話 独り同士

「大切なものを、奪う……?」 俺は無意識のうちにその言葉を反芻させていた。 「そう。厳密に言うと、ものじゃなくて人だね。今のお姉ちゃんの一番大切な人は隆人くん。それを奪っちゃえば、今まで私を見下してたお姉ちゃんを、今度は私が見下せるようになる。隆人くんには申し訳ないと思ってるけど、みんなから認めてもらうため、そしてお姉ちゃんから大切な人を奪うためには、こうするしか方法がなかった」 ……言葉が、出てこなかった。 何かを喋ろうと口を動かすが、声が出てこない。 「……って、こんなこと言ったら隆人くんなんか私のものになるわけないのにね。何やってるんだろ、私」 俺は絆の声音の変化に気づき、絆から外しかけていた視線を再び絆に戻す。 俺は目の前の光景に目を見開いた。 ……なんだ?何がどうなっている? 絆の顔には自虐的な、無力感の滲み出ている笑みが浮かんでいた。 さっきまであんなに狂気的な笑みを浮かべていたというのに。 「疲れてるのかな、長い時間勉強してたから」 「……そうかもしれないな。あれだけやってたんだ。大したもんだよ」 絆の変わり様に戸惑いながらも、俺はなんとか言葉を紡ぐ。 「えへへ……もう勉強終わりするね」 力なく笑みをこぼした絆は、すぐにその笑みを引っ込める。 というよりも、不可抗力で絆から笑みが消え去ってしまったかのようだった。 「いいのか?」 「うん。もうこれ以上やっても、頭には入らないような気がするから」 「……そうか」 そうして勉強道具を片付けていく絆。 俺はそれを、気の抜けた目で見ることしかできなかった。 ……辺りを、沈黙が支配していた。 俺も絆も、ワイドショー番組を映し出しているテレビを感情のない目で眺めていた。 居心地悪く、気まずい雰囲気の中、俺はどう話を切り出せばいいかわからずにいた。 「……ねぇ、一つ聞いていい?」 そんな中、絆がつぶやく。 「どうした?」 「私がお姉ちゃんに勝負を仕掛ける理由を聞いて、隆人くんは私のこと嫌いになった?」 「どうしてそう思うんだ?」 不安げに俺を見つめる絆を見据えて、俺はなるべく優しい声音で問いかける。 「だって、私さっき、怖い顔してたでしょ?普通の人だったら、私のあんな姿を見たら、少なくとも私のことを引くし、話の内容も内容だった。だから、隆人くんはどうなのかなって、心配になって」 震える声で、絆は不安を吐露した。 「大丈夫だ。俺はお前を嫌いになったりなんかしてない」 「……本当?」 「あぁ。お前がそういう理由で"あいつ"に勝負をふっかけたんだとしたら、きっとそれはお前のせいなんかじゃない」 「どういうこと?」 絆は呆けた瞳で俺のことを見つめる。 「そういう思いっていうものは、周りが作っていくものなんだよ。誰かに認められたいっていう思いも、姉を見下したいっていう思いも」 "姉を見下す"というワードに、絆は表情を固くする。 俺はその表情をほぐすような優しい声で語り続ける。 「全部、周りが勝手に作っていくものなんだ。最終的にその道に行き着くのはお前だけど、その道を敷いたのは周りだ。そしてその他に道はなかった。だから、お前はその道を無理矢理行かされただけであって、お前が自らこの道を進みたいと思って進んだわけじゃない。お前のせいじゃないんだ。ってことは、お前を嫌う理由はどこにもないだろ?」 俺はそう言って、絆をなだめるように柔らかい笑みを心がけ、そして浮かべた。 「そっか……ありがとう」 絆の顔にもほんのりと笑顔が灯る。 「別に、当たり前のことを言っただけだ。それに俺は、人を好きになりにくい性格だが、人を嫌いになりにくい性格でもあるからな。お前の言動一つや二つで、そう簡単に嫌いになんかならねぇよ」 「……それ、理由になってる?」 「あぁ、理由になってるさ。俺が言うんだから本当だ」 「……それもそうだね」 絆は哀しげな笑みを浮かべた。 ……絆も、相当思い悩んでいる様子だ。 あの感情の揺れ具合からして、絆は悩みが原因で情緒が不安定になっているのだろう。 じゃなかったら、あんなに表情が一転することはない。 ……絆も、助けてほしいのかもしれない。 絆は、未來よりは俺のことを信頼できちゃいない。 さしずめ姉が俺のことを信頼しているから、絆もある程度信頼できているのか。 わからないが、それでも絆が俺のことを信じ切っていないのは確かだ。 だから俺に言い出せない。 救いを求める声を。 "助けて"という、その一言を。 絆だって、望んでいるはずなんだ。 姉と楽しく暮らす未来を。 だったら、俺にできることはなんだ? 俺には一体何ができる……? 「……なぁ」 「何?」 絆がキョトンとした瞳で俺に視線を送る。 「まだ、信じられないか?俺が、絆のことを嫌っていないって」 「そりゃあ……うん。だって私だったら、あんな顔であんなことを言われたら嫌いになっちゃうもん」 「そうか。だったら……」 俺は両腕を前に広げて、絆を受け入れる準備をする。 「ハグ、しないか」 「……えっ!?」 絆は一瞬固まったあと、顔を真っ赤にしてそんな素っ頓狂な声を上げた。 「いやいやちょっと待って。どうしてそうなっちゃうの?今、全然そういう流れじゃなかったよね?」 絆は恥ずかしさを隠そうとするがゆえか、まくし立てるように口を動かす。 「こういうのは言葉で説明するより、身体の方が伝わりやすいんだ。嫌だったら全然拒否してもらっていいんだぞ?」 「いや、けど……うぅ……」 悶える絆。 「どうするんだ?しないんだったらこの腕しまうぞ」 「待って……する、するから」 「ほら、じゃあさっさとしろ。俺だって、こんなこと言って普通でいられる訳がないんだ」 恥ずかしがる絆を見て幾分か和らいでいるが、それでも心臓の鼓動が尋常じゃないほど高鳴っていた。 こうやってハグを誘ったのは何年ぶりだろうか。 一番最後にハグを誘ったのは…… そう思考しかけて、俺はその思考を放棄する。 ダメだ、このままではまたトラウマに繋がってしまう。 俺は顔をしかめようとしてしまうが、それをぐっと堪えた。 今は絆とハグをするんだ。 関係ないことは考えないほうがいい。 思考の渦からなんとか抜け出したその時、絆が俺の胸に飛び込んできた。 「おわっ!?」 「えっ!?ど、どうしたの?」 絆が驚いた声を上げる。 「いや、なんでもない。ちょっとボーッとしてた」 「……そうなんだ」 「力を抜け。緊張してるのが丸わかりだぞ」 「だ、だって!隆人くんがいきなりあんなこと言うから!」 俺は絆の声を聞きながら、絆を抱きしめる。 「ふぁ……!?」 「大丈夫か?」 「……大丈夫」 そう言って、絆も俺の背中に腕を回した。 絆は、未來とはまた違ったいい匂いがした。 でも、絆には、未來にあった安心できるぬくもりがなかった。 「絆」 俺は諭すように声をかける。 「何?」 「癪に障るだろうが、聞いてくれ」 そんな俺の声に、絆はゆっくりと首肯する。 「俺は一昨日、お前の姉ちゃんともこうやってハグをした」 「……それで?」 明らかに拗ねたような声が俺の胸の中から聞こえてきた。 俺は苦笑しながら、あることを訊ねる。 「お前は、今どんな気持ちだ?」 「どんな、気持ち……?」 「そうだ。俺とハグをして、何を感じる?どんな気持ちになる?」 俺は絆を優しく抱き締めながら、絆の答えを待つ。 たっぷり10秒ほど思考した絆は、ぼそりと、よく耳を澄ませないと聞こえないほど小さな声でこうつぶやいた。 「……とっても温かい。優しくて、いい匂いもして、安心する。」 「そうか」 俺は絆の答えに笑みを浮かべながら言葉を続ける。 「俺も、あいつとハグをしてそう感じた。そしてあいつは俺に、相手に安心をもたらすぬくもりをくれたんだ。それが今、お前が感じているぬくもりだ」 「この、ぬくもりが……?」 未來のぬくもりは、俺のぬくもりではない。 だから、一概にもそう言うことはできないが、それでも、未來はたしかに安心させるぬくもりがどういうものかを俺に教えてくれた。 「今のお前がどういう状況か、俺にはわからない。でも、あいつとハグをしたときは、俺は孤独だった。独りだったんだ。そして、それはきっとお前も同じなんだろ?」 俺の言葉に、息を呑む音が聞こえる。 「お前は、姉を突き放して、突き放されて、きっと両親(おや)にも頼ることができないから、こうやって独りでいるんだ」 「……何が言いたいの?」 震える声で、絆は問いかけてくる。 「……お前の"苦しい"を教えてほしいんだ」 「私の、"苦しい"……?」 「お前は、独りでいて楽しかったか?嬉しかったか?」 「それは……」 「ここには俺と絆以外誰もいない。ましてや俺も、絆の顔は見えていない。」 俺はそこまで言うと、一拍を開けて、優しく囁くように言った。 「もう我慢しなくていい。俺が全部受け止めてやる」 俺の声を聞いた絆は一瞬の間のあと、まるでダムが決壊したように慟哭した。 「……ああぁっ!」 俺はそんな絆の頭に手を置く。 「今まで辛かったな。独りで、誰もいなくて。もういいんだ。我慢する必要なんかない。」 独りでいることはとても辛いことだ。 それを、絆は小さい頃からずっと経験してきた。 絆は強い子だ。 それを俺は誰よりも知っていた。 俺も、独りだったから。 そうして、俺は絆の慟哭が終わるまで、絆の頭を撫で続けた。 今まで心にこびりついていた不安を溶かすように。 「……落ち着いたか?」 俺は、俺の胸の中に顔を埋めている絆に視線を落とす。 「見ないで」 「あぁ、そうだったな。ごめん」 絆は俺のワイシャツで涙を拭う。 ……めっちゃ濡れちゃったな。 まぁ、それで絆が救われるんだったら安いものだ。 俺はそんなどうでもいいことを頭に中で転がしながら、再度絆に声をかける。 「……俺も、絆の気持ちがわかるんだ。周りに誰もいなくて、助けてくれる人もいなくて、途方に暮れていた。でもそんなとき、お前の姉ちゃんが手を差し伸べてくれたんだ。」 「お姉ちゃんが……?」 絆は顔を埋めながら静かに声を上げる。 「ああそうさ。あいつがこうやって俺のことを抱きしめてくれたから、俺は今絆を抱きしめてやれてるんだ。あいつが俺を救ってくれたから」 「……そうなんだ」 「お前が思っているよりも、あいつはいい奴だ。当たりが強いかもしれないが、じきにそれも和らいでくる。だから、お前の姉ちゃんを拒否しないでやってくれ。あいつは、いい奴だから」 「……善処するよ」 絆の声には、明らかに前より輝きが戻っていた。 それがなんだか嬉しくなってしまって、 「どっかの政治家かよ」 思わず俺はそうツッコんでしまった。 絆も、俺のツッコミをクスクスと笑っている。 「どうだ?これで俺が絆のこと嫌いになってないって証明できたか?」 最後に俺がそう訊ねると、 「うん!!」 絆は目尻に涙を浮かべながら、満面の笑みを見せて、元気よく返事をした。 だが、絆に注いだオレンジジュースは、ほとんど飲まれないまま結露していた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加