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オレはすぐに式場にキャンセルの電話をし、会社に辞表を出した。そして最低限の荷物をまとめ、その荷物が入ったスーツケースを駅のロッカーに預けて、当麻に別れを告げたのだ。
この短期間でできないことは、親にやってもらった。既に当麻のことは紹介済みで、式場も式の日取りも決まったことは話していた。なのに理由も言わず、急に式は辞める、当麻と別れると言った息子に初めは当惑していた両親も、切羽詰まったオレの電話に最後は折れ、後のことを引き受けてくれたのだ。
『話せるようになったら、ちゃんと理由を話してよ』
母親は最後にそう言って電話を切った。
両親もアルファとオメガの夫夫だ。
だけど、オレが以前信じなかったように、いきなり運命の番と出会ってしまったからと言っても、すぐには理解してくれないだろう。それにその時はまだ、オレの中でも戸惑う部分があったから・・・。
自分でもよく分からないのに、両親には話せなかった。
だからオレは詳しい事情を告げずに、両親に後のことを任せて、オレは身一つで東京から離れることにしたのだ。
そんなオレがほんの気まぐれで降りた駅は、あまり人が歩いていなかった。
寂れた町。
第一印象はそうだった。
だけど少し歩くと商店街があって、たくさんの人で賑わう、という程でもないけれど、地元の人には欠かせない生活の中心となっていた。何となくそんな雰囲気が心地よくてしばらく歩いていると、目に入った一件の喫茶店。
もう夕方の夕食時。その喫茶店もそろそろ店じまいかと思いながら開けたドアの向こうで、優しい笑顔が出迎えてくれた。
寡黙そうな老齢のマスターと柔らかい微笑みを浮かべる奥さん。そこはそんな二人が営む喫茶店だった。
まだ大丈夫だという言葉に甘えて、コーヒーを注文すると、頼んでもいないケーキも運ばれてきた。
『残りもので食べてくれると助かるんだけど、甘い物は大丈夫かしら?』
そう言って笑って差し出してくれたいちごのショートケーキ。
オレはありがたくそれをいただき、熱いコーヒーを飲んだ。そして初めて、ずっと張っていた気持ちの糸が切れた。
テーブルに落ちた雫。
それを見て初めて、オレは自分が涙を流していることに気づいた。
泣いている意識はない。
喉を上がる嗚咽も、高まる感情もない。ただ涙だけが静かに溢れてくる。
昨日からいろいろありすぎて、疲れてしまった。
もう涙を拭う気力もない。
ほんの2日前まで、オレは幸せの中にいた。おそらくこれまでの人生で、一番幸せだったと思う。大好きな人と結婚する。籍を入れて、番になって、そして、その人の子供を生む。
オレの両親はとても仲が良く、オレはそんな両親に子供の頃から憧れていた。
オレも両親のように、愛し愛されるアルファと出会って結ばれたい。そして家族を持ちたい。
それが叶うはずだった。
6年間お互いを思い合い、ようやく全ての準備が整って一緒になれるはずだった。
なのになんで・・・。
会社にはいきなり辞めると言って迷惑をかけた。
これだから最近の若者は・・・とイヤミを言われた。でもそんなことどうでもいいくらい、オレは動揺し、早くここから離れなければと言う思いに囚われていた。
両親にも心配をかけた。
そして、部屋の後始末をお願いしてしまった。
さすがに、住んでいたマンションをその日に解約もできず、とりあえず必要なものだけ持って出てきた。だからあとの荷物の処分と、解約の手続きを親に頼んだのだ。
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