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とにかくオレは、あそこから早く逃げなければならないと思った。
運命の番ともう一度会うのも怖かったけど、いきなり別れを告げられて動揺した当麻が、時間ととも落ち着きを取り戻してオレのところに来てしまったらと思うと、オレは怖くてたまらなかった。
時間が経って冷静になった当麻は、オレとは別れない、このまま番になろうと言うだろう。だてに6年も付き合っていない。当麻の性格はよく分かっている。そして当麻も、オレをよく知っている。オレの気持ちが変わっていないことに気づいたはずだ。
だからきっと当麻は、運命も本能も関係ない、自分たちの心に従ってこのまま一緒になろうと言い、そしてオレは、そんな当麻に逆らえない。当麻を愛する気持ちは、少しも変わっていないのだから。
でもダメなんだ。オレの心は当麻を愛しながら、他のアルファを求めてしまう。あのフェロモンを知ってしまってから、オレの奥底に眠るオメガの性が、当麻ではないアルファを渇望するんだ。
そんな自分が許せない。
このまま当麻と番っても、きっとオレは心から幸せになれない。常に心のどこかであのアルファを思い、そんな自分に嫌悪するんだ。そして、当麻への罪悪感に苛まれる。そんなオレは、当麻の傍にいる資格はない。たとえそれでもいいと当麻本人が言ったとしても。
だからオレは当麻から離れるんだ。
本人を前にしてしまったら、きっとオレの弱い心は当麻を拒めない。だからその前に、オレは出来るだけ早く当麻から逃げる必要があるんだ。
そう思って、とにかく必死に東京を離れた。無我夢中で、当麻のことを深く考えないようにしながら。だけどこうして熱いコーヒーを飲み、甘いケーキを口にすると、心の緊張がふっと解けていく。
とその時、オレの前に白いタオルが差し出されてきた。いつの間にか奥さんが、オレの傍に立っていたのだ。そのタオルを無意識に受けとったその時、麻痺したように何も感じなかった心に一気に悲しみが湧き上がり、気がつくとオレはそのタオルに顔を埋めて泣いていた。
どれくらい泣いたのか、奥さんはその間優しくオレの背中を撫でてくれていた。そして涙が止まると、奥さんはその涙の訳は訊かず、これからのことを訊いてくれた。
それはきっと、こんな遅い時間にスーツケースひとつ持った訳ありそうなオメガが、一人喫茶店の片隅で泣いていたことを心配してくれたのだと思う。
入ってきた時には気づかなかったけれど、マスターと奥さんはアルファとオメガのご夫婦だった。だからきっと、オレがオメガであることはすぐに分かったのだろう。
『この町に泊まれるようなところはないのよ。良かったら今日はもう、ここに泊まって行きなさい。こんな時間に一人で出歩くのは危ないわ』
男とはいえオメガの夜の一人歩きは危険だ。ましてや知らない町の人気の無い道。駅まで戻るとしても、確かにオレでも少し躊躇する。それに、その時は心も身体も疲れていて、深く考えることも出来無かった。だからオレは、ただ言われるままに2階に通されて、そのまま倒れるようにベッドに突っ伏して眠ってしまった。
疲れた心と身体はその夜、オレに夢など見せずに深い眠りに誘ってくれた。そしてその眠りで身体が回復した翌日、オレは何も訊かずに泊めてくれたお礼にと、その日喫茶店を手伝う事にしたのだ。あまり遅くなると危ないからと、閉店時間より1時間早い18時まで手伝うことにした。
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