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喫茶店の仕事など初めてで、余りお役には立てなかったかもしれないけれど、お二人は温かくオレに接してくれて、終わりが近づくにつれて別れるのが名残惜しいと思った。
そして約束の18時。ちょうどお客さんが切れたのを見計らって、オレが借りていたエプロンを外してマスターに渡すと、マスターはエプロンではなくオレの手を握り、そして優しく言ってくれた。
『行くあてがないのなら、ここで店を手伝いながら住めばいい』
と・・・。
オレは詳しい話をしていなかった。ただ訳あって、全てのものから逃げてきたとだけ言っていた。なのにそんなオレを、マスターは引き止め、受け入れようとしてくれた。それがどんなに嬉しかったことか。
実はその時にはすでに、お店に来る常連さんの温かさやマスターご夫妻の優しさに触れて、オレはこの町に住みたいと思っていた。だからお手伝いを終えたら、とりあえず隣町にホテルをとって、この町での住まいと仕事を探すつもりだったのだ。
だからオレはその申し出にすぐに頷き、ここでお世話になることになったのだ。
こうしてオレは、そんな喫茶店のマスターご夫妻の好意に甘え、そのままここに住まわせてもらうことになった。
この喫茶店は早期退職をしたマスターが奥さんともに始めたお店で、お二人もまた、東京から流れてきたのだそうだ。その理由もオレと同じで、いつも特急で通過するこの駅にふと降りてみたくなったらしい。そして商店街の雰囲気と人情深い街の人たちの人柄に惚れて、ここにお店を出すことに決めたのだそうだ。
寂れた町は閉鎖的だと思いきや、突然やってきた初老のご夫婦を温かく迎え、喫茶店出店にもいろいろと親身になって手伝ってくれたそうだ。そして無事開店できてからも、常連となってお店に来てくれて、ここまでやってこれたのだという。そしてそんな町の人たちから受けた恩を、今度は訳ありで流れてきたオレに返してくれたそうだ。
今ではマスター夫妻の代わりにお店に立つことが多いオレのことも、常連のお客さんたちは温かく受け入れてくれた。そしてオレは、そんなみんなに支えられながら、何とか喫茶店を回している。
マスターご夫妻はアルファとオメガでとてもお若く見えるけど、実際はオレと同じ年のお孫さんがいるらしい。そろそろ身体もきつくなって、お店をどうしようかと思っていた所へオレが来て、実は助かったとのこと。
そろそろ店をたたんで、残りの人生を穏やかに過ごそうと思いながらも、ここまで良くしてれた常連さんには申し訳ない気持ちもあり、なかなか踏ん切りがつかなかったのだそうだ。なのでこれを機に、少しずつオレにお店をまかせて、自分たちは引退しようと考えているらしい。
こんな、どこの馬の骨とも分からないやつに大事なお店を任せていいのかな?
と、オレの方が心配してしまうけど、マスターは『人を見る目はある』と言って、オレを信頼してくれる。だからオレはそんなマスターの気持ちを裏切らないよう日々仕事を覚え、何とかマスターと同じコーヒーが淹れられるようになった。
それがちょうど一年前。
そしてその頃からマスターご夫妻は少しずつオレだけに店を任せるようになって、今ではオレの発情期の時にだけ、店に立つようになった。
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