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「わざわざ言うことじゃないでしょ。それに、もうあの時には、建築から離れるって決めてた」
硝の瞳が暗いかげりにおおわれる。
「毎週進捗発表があって、ひどいときは三徹で資料準備して、模型つくって……スタジオだって日付を越えてやっと終わる。そういうの、もう、いやなんです」
出会った夜のような、光を一切含まない目で硝は言い捨てた。
「もう、つかれた」
紅茶と、コーヒーが運ばれてくる。湯気の向こうの硝にそっと問いかける。
「……じゃあ、柾木教授につかないとして、卒論は」
「別の研究会で書きます。もっと、らくなところで」
たしかに硝にはその選択肢がある。この大学は、学部に関係なく単位を取得できる。建築専攻が、文学部のゼミで卒論を書くことも可能だった。
「ねえ、うそついてる?」
「……は?」
硝は飲みかけたコーヒーを唇から離して、光祐を睨んだ。
「どういう意味ですか」
「あの模型を作り上げるまでに何回徹夜した?」
「覚えてるわけないでしょ」
「だよね」
それだけの集中力と、熱意と、努力から生まれているのだということは、あの精巧な作品を見ただけで、わかる。
「それだけ好きだったんだろうな、と思ったよ。建築が」
あの夜でさえ、製図用のシャーペンに、どこか羨望のような眼差しを向けていた。まるで懐かしむような。
「その日々が苦痛だったなら、あの作品ができる前に、とっくにやめてるだろ。いまになっていやになったなんて、うそだ。院進まで決めていて」
硝の唇がわずかに震えている。これ以上ずけずけと踏み込んではいけない、とわかっているのに、なぜか自分を止められなかった。
「卒論発表の日、一体何があった?」
ガチャン、とコーヒーカップの底が机に叩きつけられる。
「あんたにひとの苦痛がわかるとでもいうのか」
痛みに掠れた声。その痛みは、光祐の心臓まで届くほどだった。
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