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卒業していく四年生に新しい教員の話はしない。楽しくなりますよ、なんてことはなおさらだ。ああ、そうだったのか、と気がつく。
「院進、決めてたんだ」
「もうやめました。今は就活忙しいんで、それじゃあ」
「待って」
細い手首を引き止める。あの夜よりも気温はずいぶん高いはずなのに、相変わらず冷たかった。
「これ、返すよ」
封筒を差し出すと、硝はぎょっと目を丸めた。
「なんでまだ使ってないんですか」
「学生からお金はもらえないよ」
「でも、あのシミとれなかったし——スウェットにも、その……」
あの夜の情事がちらついたのか、硝の歯切れが悪くなる。わずかに見せた隙にすべりこむように、光祐はふ、と笑う。
「お金は受け取れない。その代わり、時間をくれない」
「……なんで」
「あの夜のお返しをくれるつもりなら、きみの話が聞きたいなって」
硝の瞳に戸惑いと後悔が滲んでいる。自分でも、ずるいなと思う。光祐がこういえばこの真面目な青年が断れるはずはないのだから。
案の定、硝はばつが悪そうに掠れたため息をもらして、頷いた。
二人は大学近くのカフェに移動した。平日の昼間は予想通り空いていて、奥まった四人がけのソファ席に向かい合って座った。五限までに戻ればいいので、一時間以上余裕があることを確認して、光祐はアールグレイを注文する。一方硝は一刻も早く立ち去りたいという顔でブラックコーヒーを頼んだ。
「柾木教授からどこまで聞きました?」
核心に直球で切り込んでくる。無駄話をするつもりは一切ないらしい。
「卒業発表でトラブルがあった、ってことだけ。詳しくはなにも」
「おれの研究内容は」
「模型を見ただけ」
「……見ただけでもわかったでしょう」
光祐はうなずいた。
「おどろいた。あんなに似てるなんてね」
「おれだって」
「どうして言わなかった? 僕の部屋で見た時に」
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