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「あの日は、すみませんでした。でも、もう、あんたと話すのはこれきりです。なにも知らずに哀れんでくるひとっていちばん迷惑だ」
立ち上がった硝が背を向けて店を出ていくのを、今度は止められなかった。机のうえでわずかにこぼれたコーヒーの透き通った茶色を見つめる。その横にはいつ置いたのか硝のコーヒー代があった。ほんとうに律儀だ。
ため息もつけないほど脱力して、背もたれにからだが沈みこんでいく。このまま背景と同化して消えたい。
なぜ踏み込もうとしたのだろう。
たすけて、と言われたから? すがるような喘ぎ声が忘れられないから? 硝がいった通り、彼が建築をやめてしまったことを『なにもしらずに哀れんで』いたから? たぶんそのすべてが理由だった。
去り際に見えた暗い瞳が脳裏をよぎり、ぐ、っと思いきり重力がかかったように胸が重たくなる。
だれの苦痛も、自分に推し量ることなどできないことは、五年前に理解したはずだった。暗い、暗い目をした友人——柿澤の死を知った日に。
爪が手のひらに食い込むのもかまわず、光祐はぎり、と自分の拳を握った。同じことを繰り返す前に。取り返しのつかないことになる前に。
硝のことを考えるのは、もう、やめなくては。
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