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二月に台風が来るのは観測史上四十年ぶりらしい。まだ雨粒は落ちてきていないものの、ごうごうとタクシーの窓を吹きつける風の音だけで、これからくる嵐の規模はだいたい予想できた。
持ちなれない紙袋をひとつ抱え、光祐はアパートの前でタクシーをおりる。エントランスを抜けた瞬間、外でばらばらと激しく雨が降り出した。せっかくの会だったが、交通機関が止まる前に切り上げて正解だった。
鍵を取り出そうとかばんをまさぐっていると、ふと、エントランスの向こうに人影が見えた。
アパートの前で、見知らぬ男が嵐に打たれている。パーカーにジャージと、二月にしてはずいぶん薄手の服は、すでに救いようがないほどずぶ濡れだ。路地の真ん中で立ち尽くし、微動だにしない青年は、まるで、望んで嵐に打たれているようだった。
光祐は、その青年の、暗い、暗い瞳に釘付けになった。
こういう顔をしている人間を、一度だけ見たことがある。そのひとは、五年前、死んだ。
気がついたらエントランスを飛び出していた。
「大丈夫ですか!?」
反応がない。雨粒が激しく全身を打つ。
「っ、」
とっさに腕をつかんだ。大丈夫ですか、ともう一度声をかけると、青年はのろのろと顔をあげた。痩せた骨格と大きな瞳は、自分よりも数歳若く見える。光祐と目が合うと、みるみる我に帰ったように青年の顔に表情が浮かんだ。困惑、葛藤、羞恥、戸惑い。
声をかけてしまった光祐自身、この先どんな言葉をかければいいかわからなかった。適切な言葉を探し当てる前に、青年の細い指が光祐の手に触れた。ごおおお、と雨音が地鳴りのように響く。
「たすけてください」
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