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柚木には王子様が居る。
三隅央慈という名前の、王子様だ。
両親に虐待(という類の境遇だったらしい。柚木にその認識はなかったので、長じてからあれが虐待だったのか、と思った)を受けていた六歳の柚木をたすけてくれたのが、当時高校生の三隅だった。
それ以来彼は、柚木の中ではずっと、王子様のポジションだ。
その王子様が、薄い唇を動かして、
「Kneel」
と言った。
柚木はソファに座る三隅の足元に、ペタリ、と腰を下ろした。
爪先まできれいな指が、トン、と自身の膝の上で跳ねる。
促されるままに柚木は、三隅の太ももに頬をすりつけるようにして、頭を預けた。
「Good boy」
チョコレートのように甘い声が、柚木を褒めてくれる。
柚木はこの、「Good boy」と言うときの三隅の声のトーンがたまらなく好きで。
好きで、好きで、好きで。
自分が犬だったらきっと、尻尾がちぎれるぐらい振っているに違いないと、思った。
柚木は三隅の膝に懐きながら、どの角度から見ても格好いい王子様の顔を見上げた。
三隅が滲むような微笑とともに、てのひらで頭を撫でてくれた。
「いい子だね、俺のお姫様」
彼の手が、生え際をやわらかく揉み込んで、そのまま下の方へ滑り、柚木の首に巻かれている革の赤い首輪に触れた。
「愛してるよ、俺のSub」
愛の言葉と同時に、三隅の唇が降りてきて。
柚木がDomの所有物であることを示す首輪に、キスが与えられた。
「おーちゃん……」
子どもじみた呼び方で三隅を呼んだ、柚木の唇にも。
やわらかでやさしいキスが、落ちてくる。
柚木はそれを受け入れながら、泣きたくなるのを必死にこらえていた。
三隅はいつまで騙されてくれるだろう。
「Good boy」と甘く囁く三隅の声を、柚木はいつまで自分のものにしておけるだろうか。
いつかは、気づかれてしまうだろう。
柚木が本当は……Subではないことに。
柚木のダイナミクスが、本当はUsualであることに。
いつかは……気づかれてしまうだろう。
犬になりたい、と柚木は願った。
Subになれないのなら、犬になりたい。
柚木が犬ならば、たとえば三隅が他の……本物のSubの元へ行ってしまったとしても。
犬ならば、三隅の傍に柚木の居場所があるかもしれないから。
どこにも行かないでほしい、と祈りながら柚木は、潤んでしまいそうになる瞳を瞼の奥に隠して、三隅のキスに溺れた。
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