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母が居ると部屋は温かかった。寒いのは嫌いだからといつだってダルマストーブは全力で働かされていた。
「ママはマァちゃんとお話ししたいのになぁ」
あの頃、母親は皆『お母さん』だったのに、我が家は違った。それはちょっとだけ人前では恥ずかしかった記憶。
「何、話すの?」
私は本から顔をあげない。今となっては何を読んでいたのか定かではない。忘れてしまうくらいの本なら顔くらい上げてよ、と母の残影より歳をとった私が呟く。
母は父を残して十年も前に亡くなっている。それなのに思い出すのは母のことばかり。母の生活した痕跡は十年間でほぼ消滅した。それでも私は母を思い出す。
キッチンに足を踏み入れ、最後に父が使ったのであろうマグカップを流しで見つけた。几帳面な父はマグカップをちゃんと水に浸していた。
「お前ちゃんと水に浸しておけよ」
「あらやだ、そうだった」
明るい母の声がした。注意されてもちっとも気にする素振りはない。それが母。だって洗えばいいんだから。落ちなかったら漂白しちゃおうと母が笑う。
キッチンに立つ母が賛美歌を口ずさむ。母はミッション系のスクールに通っていたらしく、時折その片鱗をみせた。たとえば食器を洗う時の鼻歌が賛美歌だったり、クリスマスをしっかりと祝ったり。
私が人より賛美歌を知っていることに気がついたのは、友達の結婚式に参列した時だった。厳かに流れる賛美歌、どれもこれも馴染みの曲だった。皆は初めて聞くのに歌えないよねとヒソヒソと話していた。驚きを隠して澄まして小さな声で歌う。鼻歌のように。
ピピッとリビングで警告音が鳴った。慌ててリビングに戻るとエラーという所が赤く点滅していた。火は既に落ちている。
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