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藪井畜庵
時は江戸時代。
天下泰平の御旗の元、徳川幕府が天下を治めて早十数年の月日が過ぎた……。
戦乱の世は過ぎ去り、武士は刀を釣り竿に変え、算盤を弾く町人が大手を振って闊歩する江戸八百八町。
そんな庶民が暮らす江戸の町は暇を肴に酒を一杯引っ掛けるほどには平和で、活気を担いだ棒手振りが所狭しと蟻のように駆け回る。
粋で鯔背なお節介やら世話好きが袖触れ合いながら暮らしていた。
しかしながらこの江戸の町にも厄介者に鼻つまみ者、はみ出し者に偏屈者、奇妙奇天烈、珍妙下劣、畜生外道な輩はやはりいるもので……
そんな者たちが行き着く果ての貧乏長屋。
誰が呼んだか『畜生牢』
話はそこな畜生牢の一角より、
「ぬぅぅぅぅぅぅぅぅん」
という地の底から腹に響くような声とともにひり出されたのだった。
厄介者の魔窟とまで揶揄される畜生牢とて惣行架、つまり厠までついてきて腹の中のものが出るや出ずんやと見守るほどの奇傑は大家くらいのものである。
女大家であるお滝はふさふさの鳥の巣のような島田髷に丸太の如き腕を組み、筋肉で張り裂けんばかりの桜鼠の小袖に上等な紋付を羽織り、穴が開きそうなほどに厠を覗き込んでいた。
それもそのはず、厠に溜まる糞尿は貴重な肥料になり大家の大事な収入源でもあった。
年間で実に五両(五十万円)近くにもなるお宝なのだ。そんなわけで誰かが勝手に取りはしないかと扉の上半分は空いていて、まあ見ようと思えば男でも女でも犬でも猫でも誰でも見ることはできたのだ。
むせ返らんばかりの芳醇な薫りに包まれながら、今まさに厠に引きこもる壮年の男は一向に便りをよこさぬ便意と戦っていた。
藁で束ね上げた白髪混じりざんばら頭。
痩せこけた頬には雑草のように生い茂る髭。
猫も羨む寝ぼけ眼を引っ提げて師より賜った十徳が翻し、木綿の着流しを託しあげて股を晒した。尻を突き出すその姿は妙に様になている。
自らを薮医者の代名詞・藪井竹庵と名乗ったはいいが、てめぇみてえな畜生が名乗るんじゃあ竹に失礼だと『畜庵』と呼ばれてしまった薮医者はお滝に仁王立ちで、まさに仁王の如き人相で睨めつけられていた。
「……」
「……出ねぇ」
「さっさと出すんだよ、この穀潰しが!」
「んなこといってもそんなまじまじと見られて出るわけがねぇ」
腹は力めど尻の穴からは賺し屁すら出ぬ有様で一向に何某かが出る気配はなかった。
お滝は無言で指を指し示すとそこでは程よい狐色のふくふくとした柴犬がいた。長屋の一員であるこの柴犬の『でぶ丸』は自覚があるのかないのか定かではないにしろ、震えながらもそれは見事な一本物を厠の底へと放り出していた。
「犬畜生のほうが余程立派じゃないかこのど畜生!」
「今まさに万端整えて放り出す御仁と比べるのはいくらなんでもご無袋だろう」
「放り出せぇ!」
「出ねえもんは出ねえ」
お滝は厠の扉を紙くずの如く引き剥がすと屋根に額をめり込ませながら畜庵の股ぐらに熊のような手を差し入れる。
「なにしやがる」
「こうするんだよ!」
「おおぉぉぉ?」
「ああぁぁぁ!」
お滝は情け容赦なく男の尻の毛を毟った。
はらはらと白髪混じりの尻の毛が虚ろに口を開ける彼方へと世を儚みながら落ちてゆく。
「これで少しは足しになるだろうさ」
「穴の毛まで毟るたぁ鬼か……」
「鬼で結構。そもそもあんたが医者でもあん摩でも薬屋でも、しっかりやってどんどん稼いで家賃を払えばあたしの角も生えずにすむんだよ!」
「そうはいっても遍く江戸にごまんといる藪医者の頭とまでいわれる儂に客なんぞ来るはずもねぇ」
「そんだけの腕があるのに宝の持ち腐れとはまさにこのことだね。腐る前にとっとと稼ぎな」
「やれやれ、お滝さんは手厳しいねぇ」
畜庵は破壊された厠から出ると尻をさすりながら、でぶ丸を抱きかかえて長屋へと引っ込んでいった。
畜庵が入った長屋の入り口には『畜生堂』の看板が揺れている。
江戸の世では剃髪すれば誰も彼もが医者になれた。
剃髪しなくても医者になれた。
なんなら、あー暑いなぁ髪でも剃るかじゃあ医者でもやるか、くらいのノリでなれたのだ。
故にごまんといるのだ藪医者が。
しかしながら腕もなければ薬も塵芥の区別もつかないようなごろつきがいくら医者を騙ったところで廃れるのが関の山。
患者はすぐにいなくなり、廃れて藪医者もいなくなるという寸法だ。
やがてはこの『畜生堂』も廃れてなくなる……はずだった。
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