時の鐘

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時の鐘

江戸の街にも時報は存在する。 それが『時の鐘』だ。 町ごとに置いてある場所もあるが、多くは寺が鐘をつく。だが寺の小僧が坊主への腹いせに適当に鐘を叩きまくったのでは意味がない。 なので寺には香時計という時を報せる蚊取り線香のようなものがあり、ざっくりと何時頃というのがわかるようになっていた。 明六ツ(あけむっつ)の鐘がなる。 長屋の煎餅布団に横たわり、でぶ丸を湯たんぽ代わりに抱いて寝ていた畜庵には時の鐘など鳴ろうが鳴るまいがどうでもよかった。 しかしこの畜生牢には時の鐘など比にならぬ『お滝の鐘』があるのだ。 ふいに薄板一枚で隣を隔てる壁をぶち破って女大家のお滝が現れた。 でぶ丸は飛び起き、畜庵は布団に顔を埋める。 「朝だよ、畜庵!いつまで寝てるんだい!」 「どうしておめぇはいつもいつも壁板をぶち破るんだ。そこに戸があるだろう」 「こっちの方が近いじゃないか」 「なにいってるんだお前は、みてぇな顔するなよ」 「いいから起きな!どうせろくに食ってないんだろう、ほら飯だよ!」 「いつもすまねぇな」 片手に握られた膳には炊きたての白米とやや焦げた目刺、大根の味噌汁が乗っている。 両手で恭しく受け取ると床に膳を置いた。 それを見届けるとお滝は自分の部屋に引っ込んで身支度を始める。 布団を座布団代わりにして飯を食べようとすると生暖かい眼差しと生温そうな涎が床に垂れる音がした。 でぶ丸がお座りをして、 「僕のご飯ですね、ありがとうございます」 とでもいいたそうな満面の笑みを浮かべていた。 畜庵が目刺を口に近づけるときゅーんきゅーんと泣き出し、離すとはっはっはっと笑顔が戻り尻尾も千切れんばかりにはためいている。 それを二、三度繰り返しため息をつきながら目刺を差し出すと嬉しそうに頬張った。 そして畜庵が白米に味噌汁をかけて茶碗を持ち上げると再び件のきゅーんきゅーんという鳴き声が聞こえてくる。 「お前、まだ太る気か」 「わん?」 「これも寄越せと」 「わん!」 やれやれと味噌汁をかけた茶碗も手放し、でぶ丸に差し出した。 しゃぶしゃぶと勢いよく食べる音がするとさすがに畜庵の腹の虫も抗議の声を上げる。 仕方なく部屋の隅に置かれた畜庵の背丈ほどもある薬棚をいくつか開けて干した虫、枯れた草やらを取り出して地面を這いつくばる御器かぶりを二三匹捕まえると乳鉢(にゅうばち)に打ち込んだ。 ごおりごおりと何がが砕き混ざる音がする。 程よく混ぜ合わせ、それを指で(ねぶ)った。 「うむよい味だ。お前も……」とでぶ丸に指を向けるが眉根を寄せてご飯粒をつけた顔はいかにも「そんなものを食えと?」と言いたげだ。 「ぎゅ、ぎゅーん」 「なんだ、美味いのにもったいないのぉ」 「きゃん」 「わかったわかった」 畜庵は混ぜ合わせたそれをかき込むと土間の横にある流しに食器を置いて戸板を開け外に出る。 朝日が長屋全体に差し込み始めていた。 固まった身体を解すように伸びをしていると長屋の入り口である木戸をお滝が開けているところだった。 長屋の入り口は木戸と呼ばれる門がある。 その門番を大家であるお滝は務めているので入ってくる人間はすぐにわかるようになっていた。 当然門限もあり、時間が過ぎれば朝にこうしてお滝が開けなければ長屋には誰も入れなくなる仕組みである。 そんな木戸の前で待っていたの二人の父娘だった。 「お滝、朝からちょいと邪魔をするよ」 「おはようございます、茶吉の旦那さま」 「忙しいときにすまないね、畜庵はいるかい?」 「ええ、今しがた叩き起こしたところですよ」 「それは気の毒に」 父親の名前は越後屋茶吉(えちごやさきち)。 ただの挨拶でさえ様になるほどの役者も羨む壮年の男前で本田髷(ほんだまげ)に深緑の羽織り、唐桟縞(とうざんじま)の着流しをさらりと着こなす。一見地味だが目が飛び出るような金額の布地ばかりだ。 彼は畜生牢の家主であり、お滝を雇っている主人でもある。呉服屋を営み、貴人や武士のものであった高級品である呉服を庶民が楽しめる文化へと変えて大流行させたやり手の商人でもあった。 その傍らでやたらと構ってほしそうな空気を醸し出してお滝の視界に無理やり入り込もうとする輩がいる。 「……」 「さてそろそろ布団でも」 「ちょっと!このあたしを無視とはどういう了見よ!」 「あーそういえばいるようないないような」 「下町の華と呼ばれる看板娘おりょうちゃんを捕まえて随分ないい方ね!」 「下町の鼻糞?」 「いってねぇよ!」 なんとも(かしま)しいのは茶吉の一人娘で名はおりょう。 桜が描かれた白の小袖にこれまた小桜の簪を差している。 浮世絵師がこぞって描きたがるくらいに目鼻立ちの整った大変な器量良し。その上に頭もよく、男どもが舌を巻くほど弁が立ち、明朗快活で人当たりも良いので『下町の華』などと呼ばれる越後屋の看板娘でもあった。 長屋から畜庵が玉袋を掻きながら出てくるとおりょうはまるで千両役者を待ちわびる聴衆のごとく小躍りし始めた。 「畜庵さまー!あなたのおりょうはここにいますよ!」 「畜庵、鼻糞がなにやら喚き散らしてるよ」 「鼻糞いうな!」 「耳糞だった」 「糞間違いか!おりょうは糞にまみれても畜庵さまへ会いに行きます!」 「それはさすがに嫌だろうさ」 お滝とおりょうは親子ほども歳が違うだけにややもすれば気後れしそうだが互いにそんなことはなく、姉妹のようなやり取りをいつものように繰り広げていた。 それを尻目に茶吉はそわそわと落ち着かぬ様子。 華のある見た目と辣腕とすらいわれる経営手腕に反して悪戯好きの子どものような一面も併せ持つ。 「畜庵、先日預けた私の黄金丸(おうごんまる)は元気になったか」 「おーあーあれか。ほれ、奥にいるでぶ丸の背で気持ちよく休んでおるぞ」 「本当か!」 待ちわびたとばかりに勇んで畜庵の長屋に駆け込んでいった。 黄金丸というのは茶吉の飼っている(のみ)だ。江戸は一大ペットブームの最中であり、その中で競い合いが始まった。闘鶏や闘犬、鈴虫の鳴き合わせ、さらには蚤がどれだけ飛ぶかを競い合う競技すら合った。 それにどっぷり嵌った茶吉は大金はたいて蚤を買ったはいいが元気がないのを心配して畜庵に治療を依頼していた。 ちなみに畜庵は預かって数秒でその蚤を無くした。 おそらく茶吉はでぶ丸の血を吸ってすくすくと育った元気な蚤を黄金丸と勘違いすることになるだろう。 おりょうはお滝にやり込められながらもようやく畜庵の元へたどり着き、慌てて身なりを整えた。 「畜庵さま、いつも父の道楽に付き合っていただきありがとうございます」 「なにすぐに逃がして……」 「逃がして?」 「治しているだけだ」 「さすが畜庵さまです!おりょうは畜庵さまの一言一句に感動し(むせ)び泣きそうです!」 「そ、そうか」 「あぁ畜庵さまの吐息が!」 御器かぶりを先程食べた畜庵の吐息を浅草寺の香でも浴びるかのように全身に纏わせ、さらに吸い込んでいる姿に畜庵はややたじろいでいる。 なぜこの純情可憐な小町娘が見窄らしい薮医者に熱を上げるのか。 まだおりょうが幼い頃、原因不明の高熱で生きるか死ぬかの境を彷徨ったことがあった。 名医や医聖と呼ばれる者たちに見せてもどうにもならず匙を投げ出すほどだった。 そこに駆けつけたのが当時医者として飛ぶ鳥を落とす勢いで名を轟かせていた畜庵である。 いつ自分に伝染るかも知れない中、寝ずの番を続け、外法と呼ばれる治療を施し治したのである。 以来それがきっかけで畜庵を熱烈に慕うようになったのだが、どうにもその想いの方向性が尋常ではないようで……畜庵の常日頃の挙動を日記に(つづ)るのが日課で、落ちている縮れた何かを集めて押し花のように並べ飾るのが趣味だった。 ただでさえ只ならぬこの娘、そして父親にはもう一つ尋常ではない素養が備わっていた。 それは笑顔の気色(きしょく)がこの世のものとは思えぬほど悪いこと。 2ad6b754-d8c2-4ae1-87ad-088fdf2d34b6 「畜庵、蚤が元気過ぎて見失ったぞ!(にちょ)」 「畜庵さまの縮れものがまたここに!(にちょぉ)」 二人の笑顔に周囲の鳥達は怯えたようにぎぃやぁぁと(いなな)き飛び立っていく。 額と目尻、口元に深いシワは刻まれたかと思えばむき出しの歯茎が糸を引き、涎が滴り白目を剥く。 特におりょうは元が絶世の美女の顔であるだけに、なにをどうすればここまで醜く歪むのかとこの父娘を取り巻くものは必ず一度はその不可思議に頭を抱える。 正面きって見ればだいの大人も泡を吹いて正体を失う笑顔を向けても畜庵はまるで怯まず普段通りに接してくれることがその想いに拍車をかけていた。 お滝に用があると渋々引き剥がされたおりょうを他所に蚤を必死に探す茶吉へ畜庵は目線を向けずに声だけを向ける。 「それで」 「ん?」 「他に用向きがあるのではないか」 「相変わらず妙なところで鋭いな」 「おりょうに話せないことか」 「無用な心配は掛けたくない親心だ」 「なんだ?穀潰しの儂を追い出す気にでもなったのか?」 「そんなことをすれば私は明日にも太日川(ふといがわ)の川面に浮かぼうよ」 「ではなんだ」 「なに、お前さんに治療を頼みたいんだよ」 茶吉の神妙な面持ちを見て畜庵はすべてを悟る。 肩に手を起き、うんうんわかったわかったと頷く。 「それはな、吉原の通いすぎだ。いくら金が(どぶ)のように湧いて出るからといってもお主の粗末なも」 「違うわ!それに誰が粗末なものだ!これでも吉原ではそれなりに名の通った……はっ?!」 吉原の二文字にお滝とおりょうの顔がぐるりとこちらを向く。 お滝は反吐でも吐きそうなほど顔を(しか)め、おりょうは血走った(まなこ)で何処からか持ち出した懐刀をべろりと舐めている。 吉原に通う茶吉への嫌厭(けんえん)というよりも畜庵を吉原に誘ったのかでは殺さねばなるまいなという殺意に近い感情が刃のように向けられる。 「違う!違うぞ二人とも!吉原から注文が入ったという話だ!あー忙しいなあ!そうであろう畜庵!」 それを聞いて訝しみながらも顔が戻り、茶吉は胸をそっとなでおろした。 「大声でいうやつがあるか!」 「なんだ、勃たんのではないのか」 「違う!まだまだいける!」 「ではなんだ?こんな藪医者に頼るくらいだ。余程の面倒な理由か?」 もし茶吉が病を抱えていたとしても大店の金持ちなら、それこそ名医でもなんでも呼べるだろう。 失せ物探し、探し人、痴情の縺れ、いずれも顔の広いこの男なら頼む宛などごまんといる。 それでも敢えて畜庵に話を持ち込んだのには理由があった。 「捨て子がいる」 「流行り病か飢饉(ききん)でもありゃあ人買いを逃れた奴が江戸にいくらか流れてくる。珍しくもない」 「おそらく()み子だ」 「……ほう」 「親も知れず行く宛もなく、ただ怯えて逃げておるように見受けられるのだ。しかしその片方がな、私程度が見てわかるほどには具合が悪そうなのだ」 「それで親心が(くすぶ)って診てくれと」 「そんなところだ」 忌み子とはつまりは双子である。 双子を(はら)むと犬や猫と同じ畜生腹(ちくしょうばら)と忌嫌われた。 そもそも二人も同時に産まれると育てることが難しかったという当時の実情もある。 運が良ければ産まれてすぐに引き離されて別の家族の子どもとして育てられるが、難しければ産婆によって間引きされた。 故に双子の捨て子などまずいない。 双子として産まれて今まで育っている時点で二人とも育てられる裕福な『それなりの身分』の子どもではあろうが、捨てられるだけの『それなりの理由』もあるということだ。 理由如何によっては我が身に危険が及ぶ可能性すらある。 「お主の子ではあるまいな」 「そうであればすぐにでも、おりょうの姉妹が増えておるわ」 「安易に手は出せんが、捨て置けぬといった具合か」 やれやれと畜庵はため息をつく。 この男は理解(わか)っている。 わかっていて話を持ち込んでいる。 多分に面倒を背負い込むであろうこと。 そしてなにより藪井畜庵にとって子どもを治すということがどういうことなのかを承知(わか)った上で。 それは藪井畜庵という男が畜生牢にいる理由であり、お滝を推して相当な腕を持つ医者でありながら人を診ない訳でもあった。 「随分と……したたかなことだ」 「私も商売人なのでな」 「たが儂は」 「お前のせいではない」 「……」 「お上に取り調べられたとて私は何度でも言おう」 「……まいったねぇ」 共に多くは語らない。 茶吉が、そしておそらくはお滝もこの話を知っているのだろう。二人が悪意を持ってこの話を持ち込んだわけではないことは十二分に伝わっていた。 畜庵は目を閉じてほんの数瞬の間、在りし日を顧みる。 二度とは帰れぬ昔日の幻。 自分を信じて疑わぬ疱瘡を患った幼子、そしていらぬと断った診療代の代わりに食べ切れぬほどの馳走を用意する両親。 もう、どちらもこの世にはいない。 残ったのは己に刻まれた悍ましき悔恨だけだ。 最後の患者を診てから何年が経っただろうか。 未だに自分を許す気など微塵も湧きはしなかった。 なぜまだ畜生相手に医者の真似事をして生きているのか分からなくなるときもある。 現実を離れて心がここではないどこかを彷徨う。 人の顔程もあろう張り手の痛みで現実に引き戻された。 白昼夢のような幻から目覚めてみれば、足にはおりょうが獅噛み付いて泣きじゃくり、眼の前には岩山のようなお滝が溢れんばかりの涙を瞳に湛えて、 怒っているような、悲しんでいるような、 そんな表情で畜庵を見下ろしていた。 「お滝」 「あんたは……あんたは何も悪くない!」 「しかし」 「大家のあたしが悪くないっていってんだ!店子(たなご)は黙って頷きゃいいんだよ!」 誰も彼もが無茶苦茶である。 だがそれが畜庵の心を少しだけ軽くした。 やれやれと嘆息し、幾分か気怠げに茶吉に告げる。 「診るだけだ。治療はどこぞの医者にでも頼め。また頬を張られたのでは首がいくつあっても足らんからな。茶吉よ、さっさとその子らを連れてこい」 と頭垢が雪のように舞い落ちる頭を掻きながら返答したのだが、 「いや、畜庵が捕まえるの」 「え、儂が?」 「だって逃げてるし、畜庵なら余裕だろう(にちゃあぁぁ!)」 茶吉の顔に今日一番の満面の笑みが広がり、再び鳥たちがぎぃゃあぁぁと嘶き飛び立つのだった。
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