失せもの出ずる

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失せもの出ずる

魑魅魍魎(ちみもうりょう)有象無象(うぞうむぞう)を含めれば江戸に住まう人々の数は約十五万人。 そこに江戸にやってくる武士、商人や役人、旅人から馬、豚、鳥、(かわうそ)蟋蟀(こおろぎ)、蚤まで入れると二十万人ほどになろうか。 その中から孤児二人を探せという。 まぁつまりは先にあった関ヶ原の乱戦の最中に人相も定かではない糞と泥に塗れた足軽二人を探せといっているようなものだ。 畜庵はまさに泥に足を取られたかのような重い重い足取りで畜生牢の門戸から一歩を踏み出した。 「頼んだよ、畜庵」 「面倒だのぅ」 「四の五のいうんじゃないよ」 「しかし居場所の検討もつかん」 「とりあえず表通りを探したらどうだい?腹を空かした子どもがいく場所なんて決まってるだろう」 「おーなるほど、さすがは『元捨て子』だの」 「さすがは余計だよ、ほらいったいった」 皮肉を込めた愚痴もまるで意に介さぬお滝の勧めもあり、もはや穴蔵と化した裏店から重い足取りで茶吉が店を構える大通りへと足をむけた。その大通りとは雑踏という言葉がよく似合う江戸庶民にとってのまさに中心地。 江戸の台所、日本橋一丁目である。 江戸間十間(18メートル)。 いわゆる十間通りには人や馬が所狭しと行き交い、その合間を縫うように棒手振が野菜や魚を我先にと運んでいる。棒手振りの威勢のいい掛け声に負けじと左右に並ぶ呉服屋や両替商、旅籠、飯屋からも活気のいい呼び声が木霊する。 木で組まれた幅四間ほどの橋、日本橋の上は野菜を背にした馬が畑が群れを成すように行進していた。 対岸である北側を見渡せば白壁の土蔵が理路整然と立ち並び、江戸前で捕れた魚から遥か四国から運ばれた初物まで山のように積まれている。 川には押送船(おしおくりぶね)と呼ばれる無数の大型船が停泊し、老練な船頭が巧みな竿さばきを見せながら実に滑らかな動きでぶつかることなくすれ違う。 江戸を代表する風景が生き生きと(うごめ)いていた。 しかして魚と野菜と飯と馬糞が入り混じった反吐の如きその匂いと圧倒的な人混みは、 「いかん、吐きそうだ……」 大女と焦げた犬以外は虫や猫程度しかあまり接しない畜庵にはこの人混みは臓腑を這い回る毒のようであった。 普段はお滝といるのでわかりづらいのだが、この時代の男性の身丈は約五尺(150センチ)、女性は4尺五寸(140センチ)である。 畜庵は六尺(約180センチ)もあり頭二つ抜けるほどの大男なわけで、そんな木偶(でく)の坊のでいだらぼっちがこのような雑踏で腹の中身を撒き散らせば多くの人々がたちまち雨に打たれたすっぱい匂いの濡鼠(ぬれねずみ)。 そうなれば失せ物探しどころではなくなるだろう。 人の気に当てられて逃げるかのように喧騒から離れていく。 あまり気は進まないが、腹を空かせた子どもがまず匂いにつられて立ち寄りそうな屋台か飯屋を探していくことにした。 江戸の食は非常に豊かだが、中でも屋台飯は安価な上にその数も種類も多い為、出稼ぎの職人をはじめ万民の胃を満たしていた。 三歩歩けば蕎麦屋に当たるほど、蕎麦を掲げた店も屋台も多い。次いで寿司に天ぷら、茶飯に餅屋まで腹がはち切れるまで食い倒れることができる。 特に江戸の人々に愛されたのが鰻だ。 江戸前といえばまず口をついて出るのは鰻に他ならない。 以前は泥臭く評判も悪かったが、調理法が確立されてからは名だたる食通からも非常に美味と評される。 串に刺して焼いたものはだいたい四十文(1200円)。小腹を満たすには値は張るが匂いも味も間違いない。 胸が焼けたような不快感に包まれていても、不思議と匂いを嗅ぐと腹の虫が抗議を上げるものだ。 その点は畜庵も例外ではないようで……蜜に群がる虫にも似て鰻屋の看板に吸い寄せられていく。 「いらっしゃい!旦那、一串どうだい?」 鰻屋の主人が店先で団扇を叩いていた。 叩くほどに鰻の油が滴り落ち、赤く焚かれた炭の上で香ばしく弾けて腹の虫を一層とたたき起こす。 先程まで吐き気を催していたのが嘘のように鼻腔がくすぐられ、嫌がおうにも鼻の穴が広がっていく。 炭の香に加わる垂れの甘辛い薫りは涎という涎を芋づる式に引きずり出し、もはや喉が渇くほどに飢えをもたらす。 「もそっとこちらに煽いでくれ」 「なんでぇ冷やかしかい!」 「冷やかしではない。この匂いで三日ほど飯を食うのだ」 「冷やかしよりひでぇじゃねぇか。まったくそこの餓鬼とやってること変わらんよ、旦那」 「餓鬼?」 ふと横を見ると先程の畜庵同様に鼻の穴をいっぱいに広げ、ふはふはと(わず)かな臭気さえ逃すまいと江もいわれぬ顔で滝のように涎を垂らす子どもがいつの間にか横に立っていた。 年の頃は三歳か四歳。 その頃の稚児はまっさらな腹当てか子ども着を羽織るのが普通だ。さらにいえば髪を数か所団子状に結い上げ、髪が伸びたときに男子は髷が結えるように、女子もまた髷を結えるように備えるのだ。 しかしその子どもは溝色の紐が付いた子ども着に髪は伸ばし放題。 顔や手足は垢だらけ。 鰻の匂いが無ければ日本橋の生臭さにも負けないほど顔しかめる()えた臭気が漂ったに違いない。 おそらくは捨て子か浮浪児である。 つまり…… 「お主まさか件の……」 「っ!!!」 垢まみれの稚児は鰻を一串掴むと風のように逃げ出した。その早いこと早いこと。 旋風と土埃だけを残して影も形も残さない。 残ったのは鼻をつく饐えた臭いと怪しい風体の中年男だ。 あまりの疾さに一拍遅れて鰻屋の店主が叫び出す。 「食い逃げだー!誰か捕まえてくれ!」 「いや、今叫ぶと儂が」 そう、誰がどう見ても影も形もない食い逃げ浮浪児の姿など追うはずもない。 そこにいる汚らしいだけの大男が腹を空かして鰻を盗んだと見えるのだ。 「不逞(ふてい)の野郎だ!みんな捕まえちまえ!」 「「おー!」」 どこからともなく集まった人情溢れる義勇の市民が畜庵の足やら腰に纏わりついていく。 畜庵はやる気を失い脱力して、地面に伏したのだった。 「いやー!すまねぇな、旦那!詫びにとっといてくれ!」 と鰻屋の主人に渡されたのが鰻一串である。 ようやっと足元に群がった蟻のごとき義勇民を追い払うと、もはや先程まで子どもがいたのが白昼夢であったかもしれぬと疑うほど気配もなければ記憶もぼやけ始めていた。 しかし畜庵にとって実はそれほど差し迫った状況に追い込まれているわけではなかったのだ。 「たしかこちら側だったか」 不意に地べたに腹ばいになるとなにかを探し始めた。人通りが減った場所とはいえ、身丈のある男が往来で這いつくばうとその不気味さはやはり人目に付く。 しかしそんなことはお構いなし蟻の巣でも探すようにせっせと這い回る。 「おっ、あったあった」 畜庵が探したのは足跡だ。 無数に押し当てられた草履(ぞうり)草鞋(わらじ)の足跡の中に小さな裸足の指跡が転々と僅かに残っている。 医者修行に明け暮れた若かりし頃はその日の腹を満たすために山野に分け入っては足跡や臭いを頼りに猪や鹿、熊なんかを仕留めていた。 それに比べればいくらも容易い。 しかも盗んでいった香ばしい香りがまだ漂っている。畜庵にとってはこちらにいると呼ばれているようなものだった。 右へ左へ、人家の庭先に分け入り、時には店の中を通り抜け、開けた場所へとたどり着く。 それは小さな人通りの疎らな橋の下、その袂へと匂いは続いている。 腹を空かせた子どもが食べもせず鰻を手にして逃げ出したのだ。 にも関わらずここまで濃い匂いが途切れず続いていたのはもう一人に食べさせるために持ってきたに違いない。茶吉は具合が悪そうだといっていたが……最悪の状態もありうると畜庵は考えていた。 「あー!あー!」 「……」 先ほど鰻を盗んだ浮浪児は手にした獲物を横たわるもう一人の稚児の口に押し当てている。 甘辛い、継ぎ足された練熟秘伝のタレは口に入ることはなく、見るも無惨にこぼれ落ち、布地を黒く染めていた。 髪に多少の差は感じられるものの、まさに瓜二つの顔した幼子。横になっている方はもう片方に比べていくらか身綺麗で着ている子ども着に元の白さが少しばかり見て取れた。廃れた子ども着とはいえ上等な生地で編まれている。 しかし稚児はほとんど動いていない。 ただ胸はやや早めに上下しているので浅くとも呼吸はあるようだ。 「いかんぞ、(わっぱ)。病人に鰻はちと毒だ」 「っ!?あー!!」 言葉もろくに話せない浮浪児は気配もなく忍び寄った畜庵にあからさまな敵意を向けた。 手にしていた鰻の串の先端を向け、もう片方の手と体すべてを使って覆い隠そうとしている。 誰に教えられた訳でもなく、できる限りの術で懸命にもう一人を守ろうとしていた。 b8e682c2-427e-4df3-b300-ea6b0b2ff5d3 「儂は医者でな」 「あー!あー!!」 「ふむ……やはり言葉が通じぬか」 「あー!」 その様に普段は寝ぼけ眼の畜庵の目がいつになく真っ直ぐと二人を見据えた。 埒が明かぬ具合に畜庵はよっこらせと胡座(あぐら)をかいて座り込み、旧友と酒でも酌み交わすようにもう片方に握った鰻を差し出した。 「儂はおぬしの敵ではない」 「あー!」 「腹も空いていよう、さあ食え」 「ぅぅー……あー!」 浮浪児は鰻にかぶりつくどころか、畜庵の腕に噛みついた。一見すると細いが、無駄がなく絞りこまれた筋肉質な腕は微動だにしない。 だからといって傷つかぬ訳ではない。 犬歯が皮を破いても、肉から血が滲んでも、畜庵は決して怒らず騒がずじっとしていた。 言葉が通じない相手には態度で示すしかないのだ。 ぶつけられた疑念には持っている食べ物を差し出し、敵意には無抵抗で答える。 かつて口も聞けないような幼子を何人も治してきた経験のある畜庵ならではの方法であった。 幾ばくかの末に……腕に込められた犬歯の力が和らぐと同時に向けられた敵意もまた和らぐのを感じる。浮浪児は、それでも畜庵を視線から外すことはなかったが、大きくまだ濁り切っていない双眸が湖面のように揺らめく。 瞳からこぼれ落ちる大粒の雫は当人にも止めようがないようだった。 余程の事情があって捨てられたには違いないが、二人がそれを理解しているかは別だ。 わけも分からず市井に放り出され、信じていたであろう父母は消え、誰が敵か味方かもわからない中、しかも自分以外を守りながら生き抜くことは大人でも至難である。 自分ではどうしていいかも、 どう生きていいかもわからない。 誰一人それを教えてはくれなかった。 ただ弱りゆく片割れの為に必死だった幼子の心は決して強くなど無かった。 自分に敵意を向けない相手がいるかもしれないと知れただけで、容易く崩れ行くほどには……。 噛みついた幼子がその歯を自ら離す意志を示すまでさらに待ち、それを見届けてから畜庵はゆっくりと決して慌てて動くようなことはせず、横になっている稚児に近づいた。 傍らに膝をつくとそっと腹を擦るかのように撫でた。熱で濡れた髪をわけ、苦しそうな顔を覗いた後、泣きじゃくる浮浪児の頭をそっと撫でて、 「よう頑張ったの。今医者のところへ運んでやろう」 そう一言告げたのだった。
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