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あれは、世界中が未曽有の危機にさらされるほんの少し前の時のことだった。危機の前兆はたしかに新聞の紙面にもあった。けれど、まだまだ危機はずっと先のことだと考えられていた。大きく世界が変わってしまう少し前の出来事のお話だ。
遠くの空が少し桃色がかって見えるような気がするのは、春だからだろう。河原の土手道を学校に向かい歩きながら、僕はそんなことを思っていた。
道に沿って植えられた桜の木はここ数日の暖かさで春の訪れを感じたのか一斉に花開いている。世界は桜色に染まり、時折吹く山おろしの風には冬の名残はあるものの、舞い散る小さな花びらを見れば、なんだか温かな気持ちになり、心も軽くなる。
そんな浮かれたような調子ではだめだと両親に言われるが、こればかりは気性なのだから仕方がない。
たしかによく日焼けしてたくましい同級生の体つきなんかを見れば気後れはしてしまうが、球技も相撲も野蛮だと思ってしまう。
第一、こんなに色白でやせぎすの自分の体でしっかりとした男子のようにふるまうことを期待すること自体が間違いなのだ。
とても両親の前では言えないようなことをうつうつと考えながら河原の道を歩いていると、ふと見慣れない人影が目に入った。
この辺りでは見かけないセーラー服の女の子が、大きな桜の木を眩しそうに見上げている。
肩まで伸ばした髪は、春の柔らかな日差しを受けて、亜麻色に輝いている。セーラー服の袖から見える手は、小さくて透き通るように白かった。
思わず立ち止まった僕の気配に気が付き、彼女がこちらを振り返った。
ああ、僕はその時の情景を一生忘れることはないのだろう。
サッという音を立てて、春の風が吹いた。強い風にさらされて、無数の桜の花びらが舞い散る。思わず髪を抑えた少女の顔は少し驚いているが、それよりもずっと楽しそうだ。
大きな目が細くなっている。
長いセーラー服のスカートの裾がひらりと踊り、かわいらしい膝小僧があらわになる。手と同じ透き通るような白い肌。
風がやんだ。
少し乱れた髪を整え、少女はこちらを見た。
大きな目。少し低いが形のいい鼻。下唇が少しぽってりとした魅力的な口。
僕は、その姿から目を離せなくなっていた。
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