髪を切る

5/18
674人が本棚に入れています
本棚に追加
/248ページ
 しかし、今までここに何度か優さまが入っていったのを目撃したことがございます。優さまは帝国大学を出られていますし、きっと書物などにもお詳しいのでしょう。優さまがいらっしゃるのかもしれないのだから、探さないわけには参りません。月子さまがお待ちなのです。  真鍮のドアノブを回しますと、キイ、とかすかな音がいたしました。鍵はかかっていないようです。そっとドアを押して覗きます。  採光のための窓ガラスから午後の光が零れ出ているのが見え、古びた紙の匂いがいたしました。  壁一杯に取り付けられた洋風の本棚にはびっしりと本で埋め尽くされております。浅学な私には中身はおろか背表紙に書かれた文字さえ読めないものばかり。英吉利(イギリス)の文字なのでしょうか。  摩訶不思議なところです。はじめてこのお屋敷に入った時に感じた、別世界に入りこんだ心持ち、と言いましょうか。少しの恐れと遠慮、しかしそれ以上の――好奇心。  幼いころは高い木に上って、遠くを走る汽車に思いをはせる子どもでした。いつかあれに乗ってどこかへ行こうと思い、実際に乗りこんだのです。何の当てもないまま、それでもそうせずにはいられなくて。  図書室に入る機会はこれから先もそうないことでしょう。そのこともあってか、私はすぐに優さまの名を呼ぶのではなく――このひそやかなお部屋に踏み込み、いけないことをしてしまったのです。
/248ページ

最初のコメントを投稿しよう!