ケース4 遺族年金暮らしの老婆

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ケース4 遺族年金暮らしの老婆

 カラスが夕闇に向かって鳴き、夜の帳が訪れた。カーテンの隙間からは、無機質な白色街灯が降り注ぐ。テレビどころか、蛍光灯すらも消えている室内は、酷く静まり返っていた。  老い先短い独り暮らし。それにしても、物音の1つさえ聞こえないのは、彼女がただジッと座り込んでいるからだ。視界の先に灯る2つの朱い光。立ち昇る二筋の煙。何をするでもなく、何か考えるでもなく、無音の時間だけが過ぎていく。  現実と空想の境目は既に曖昧だ。今はどちらなのか、確かめる気も起きず、視線を一点に注いだままになる。 (もう自分には、何も残されていない)  残酷な結論が彼女の全てを支配した。このまま人知れず、身も心も朽ち果ててしまえば良い。絶望に屈した心が、胸の奥から指先に至るまで、生きようとする力を奪い去る。曲がりきった背中は余りにも小さく、今にも暗闇に消え入りそうであった。  そんな折の事だ。真新しいスマホから通知音が鳴ったのは。 ――私メリーさん。今あなたの家の前にいるの。 ピロリ。 ――私メリーさん。今あなたの部屋の前にいるの。 ピロリ。 ――私メリーさん。お邪魔します。 ピロリ。 ――片付いてるけど、お掃除はしてないよね。あちこちホコリが落ちてるもん。 ピロリ。 ――ホウキで掃くのも楽しいよね。畳をなぞるとジュワリって音がするし。楽器みたいなんだもん。 ピロリ。 ――あれ、ご飯は食べてるの? 炊飯器の中、お米がカピカピだよ。 ピロリ。 ――アンパンをちょっとかじっただけかぁ。ダメダメそんなんじゃ、ご飯をたくさん食べないと、大きくなれないんだよ? ピロリ。 ――お婆ちゃんちの猫ちゃんも言ってた。バァバは狩りの練習しないから下手くそだって。バッタも捕まえられなくて鈍臭いんだって。 ピロリ。 ――せっかく教えてやったのに、ご飯に困ってもしらないぞって怒ってたよ。でもちょっとだけ、寂しそうに毛づくろいしてたかな。 ピロリ。 ――その猫ちゃんね、最初は迷子だったの。だからパパが連れて来てくれたんだけど、ちゃんとジィジに会えたんだよ。今は一緒に暮らしてるんだって。 ピロリ。 ――それで、何だっけなぁ。伝言だよって言われたの。たしか、えっと……。「早く会いたい。でも急がず、ゆっくりで良い」だったかな。これってどういう意味? ピロリ。 ――ねぇねぇ、アルバム見ても良いかな。いろんな写真があってワクワクするの! ピロリ。 ――へぇぇ、あの猫ちゃん、昔はこんなにちっちゃかったんだぁ。ジィジも楽しそうに笑ってるね。 ピロリ。 ピロリ。 ピロリ。  不意に鳴り響く柱時計の音に、彼女は現実感を取り戻した。時刻は午前7時過ぎ。差し込む日差しは暖かだ。  彼女はまず、線香が燃え尽きた事に気づき、2本並べて火を付けた。その先には元気でいた頃の夫、そして20余年も共に生きた愛猫の姿が飾られている。 (後を追うにも、無様じゃ笑われてしまうね)  誰に語りかけるでもなく、口元に微笑みを浮かべると、今度は窓の外へと視線を向けた。  薄雲が澄み渡る空を泳いでいく。それも眺める内に、やがて群青の中に溶けては消えた。
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