ケース5 派遣社員の男

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ケース5 派遣社員の男

 くたびれて帰宅した身体は、玄関口で靴を脱ぎ散らかし、手荷物も放り投げた。暗がりでダイオードが点滅を繰り返す。灯りなどその程度で十分だ。  彼は慣れたもので、僅かな光源だけを頼りに、ベッドまで辿り着いた。着替える気力など皆無だ。スーツのシワを咎められる職場でなければ、背伸びして着飾るような立場でもない。  調整弁。代替えの利く雑多な部品。自身の事をそう評価していた。ポジションはスケジューラー。そう言えば聞こえは良いが、板挟みを食らうだけ存在である。上司からは納期について詰られ、作業者からは何かとゴネられる。そこで生まれてしまう差分について知恵を絞り、帳尻合わせに奔走し、時には自分が作業を肩代わりする。そんな毎日が心を蝕み、とうとう禁断の言葉が脳裏を侵した。 (自分は間に合わせの部品だ。従順に駆けずり回って、頭を下げられるなら誰でも良いんだ……)  そう思えばあとは泥沼だ。自分は要らない、この世に不必要だと、言葉がよぎるに任せて自らを虐げる。気力は既に底をつき、うつ伏せの身体は微塵も動かせはしない。お金の為、暮らしの為だと割り切ってはいたものの、遂に限界を迎えてしまったのだ。  だから、バッグの中で通知を繰り返すスマホにも気付けない。断続的に鳴らされる音も、振動も、失意の闇に沈みゆく男には微塵も届きはしないのだ。 ピロリ。 ――私メリーさん。今アパートの前に居るの。 ピロリ。 ――私メリーさん。今部屋の前に居るの。 ピロリ。 ――私メリーさん。お邪魔します。 ピロリ。 ――たくさんビンとか缶が一杯あるんだね、お酒が好きなの? ピロリ。 ――ペットボトルは蓋とって。別のゴミにまとめちゃってと。 ピロリ。 ――ねぇねぇ見てよ。ペットボトルの蓋ってね、こうやるとピューーンって飛ぶの。面白いでしょ。 ピロリ。 ――中身はちゃんと洗ってぇ。バシャバシャ、ドボォ。いっぱい洗ってバシャバシャ、ドボォ。 ピロリ。 ――ねぇねぇ、ここにあるビンさぁ、要らないなら頂戴。捨てちゃうやつだもん、良いよね? ピロリ。 ――この中にね、お砂とかオモチャを入れるとキレイなの。ビンの形も面白いし、どうやって飾ろうかなぁ。ワクワクするね! ピロリ。 ――それにね、息を吹きかけるとね、ボーボー音がして楽しいよ。水を入れたりすると音が変わるんだよ、すごいよね。 ピロリ。 ――それじゃあ聞いてください。歌うのは「パパがサンタだって嘘ついた」です! ピロリ。 ピロリ。 ピロリ。  ふと、外で行き交う車の音で、彼は眼を覚ました。身体の気だるさを振り払うように、寝覚めの水を一杯。暖房に晒されたピッチャーは温く、快感をもたらすには程遠い。  仕事なんて辞めてしまおう。そんな決意を秘めつつも、身体は慣れ親しんだルーティンをなぞってしまう。朝のメールチェックだ。私用の方ではなく、仕事用だ。  すると、メールフォルダを開くなりギョッとさせられた。大量に届いたメールには、悲鳴も同然の文面が踊り狂っていたからだ。先輩、助けてください。そんな空耳が聞こえそうな程である。酷い泣き顔であるのも、おおよそ察しがついた。 「仕方ないな、一肌脱いでやるか」  そう呟くと、最低限の身支度を整え、バッグを手にした。そこでふと気づいたのは、今日のゴミについてだ。週に一度だけのビンと缶の日。忘れずに出してしまおうと思いつつも、ゴミ袋にはまだ余裕がある。それなら来週で良いと思い直し、朝の慌ただしい街へと繰り出した。  昨晩は雨模様で、今もそこかしこに名残が見える。水溜りが朝日を反射して輝き、まるで道そのものが光り輝くかのよう。その上を彼は力強く歩き出した。いつもとは少しだけ違う、眩いアスファルトの道を。
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