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ケース7 接客業の若者
部屋の中で積み上がるアルバイト情報誌。パソコンの液晶には求人サイトが表示され、眼に刺さる大げさな文言や、各種の広告バナーが過剰に訴えかけてくる。
顔にあどけなさを残す女性は、無感情に、ただパチパチとクリックを繰り返す。画面で踊り狂う文字列。それらを流し読みするばかりで、脳に伝わるものは微塵も無かった。
(あんなに怒らなくたっていいじゃん……)
本日のクレームは、彼女の心を大きく蝕んだ。キッカケは自分にあるので、そこは言い訳のしようがない。しかし、あの客の怒りようは適度なものだったか。怒りを通り越して憎悪とまで感じる表情は、果たしてミスと釣り合うものだったかと考えると、やはり悶々とさせられた。
違う仕事を探したい。それでも気力は付いてこず、やがて机に突っ伏して寝入ってしまった。明日、バイト辞めますと店長に言おう。そんな未来を思い描きつつ、寝息をたて始めると、被せるようにして通知音が鳴り響いた。
ピロリ。
――私メリーさん。今あなたのお家の前に居るの。
ピロリ。
――私メリーさん。今あなたの部屋の前に居るの。
ピロリ。
――私メリーさん。お邪魔します。
ピロリ。
――うわぁ、スゴイ数の本。お仕事探してるの? えらいねぇ。
ピロリ。
――お仕事の本、ページの端が折れ曲がってるよ。元に戻しとくね。
ピロリ。
――出したらしまう、出したらしまう。背表紙揃えてピッチリとぉ。
ピロリ。
――うわぁカッコイイ! これお店屋さんの制服? お姉ちゃんお店の人なの!?
ピロリ。
――ねぇねぇ、帽子だけ貸して? 汚さないから。いいでしょ?
ピロリ。
――フンフンフン、私はお店屋さん。皆のお腹を一杯にする魔法使ぁい〜〜。
ピロリ。
――いらっしゃいませぇ、新商品のデジタル物理バーガーはいかがですかぁ? 今なら100円でお安いですよ。
ピロリ。
――ポテトとかいかがですかぁ? ジュースも美味しいんですよ。ゴクゴクゴク。ほら、こんなに甘いの。
ピロリ。
――はい、5千円お預かりします。おつりは、えっと、30円!
ピロリ。
――あっ、ポテトがトレイに落ちちゃった。でも大丈夫。サックサクで美味しいもん。
ピロリ。
――いらっしゃいませぇ! 冬の大セール、今ならマフラーと手袋のセットがお買い得ですよ!
ピロリ。
ピロリ。
ピロリ。
彼女が再び意識を取り戻したのは、昼前の日中である。本日のシフトは15時から。電話で休むと伝えるべきか、それとも何も告げずに消えても良いものか。思い悩むうちに時間は刻々と過ぎていき、ともかく今日は出ようと決意した。店長にも、気まずくはあるけども、直接告げようと。クレーマーはともかく、店のスタッフは彼女に良くしてくれたのだ。
出勤してスタッフルーム。着替える指が震える。それもバイト仲間と雑談を重ねるうち、穏やかになった。少なくとも仕事は出来そうだと、レジを打ちながら笑顔を振りまく。しかしそんな想いも、昨日に憎悪を撒き散らした女が来店したのを見て、魂の底から凍りつく。
(どうしよう、助けて店長……)
眼を見開いて、女が歩み寄るのを凝視した。瞳が釘付けになったと言って良い。また何か怒られるのか、マークされてしまったのかと、思わず後ずさる。
しかし次に目の当たりにしたは、その女が深々と頭を下げる光景だった。
「昨日はごめんなさい。クレームをつけるつもりは無かったのに。私って生まれつき顔が怖くて、笑うと更に酷くなるみたいで。店長さんまで出てくる騒ぎを起こした事を、謝りに来たの」
それから、バーガーセットSを注文されたので、通り一遍の対応でもてなした。女は去りゆく間も、繰り返し頭を下げ、店内席の方へと消えた。
こうなれば狐につままれた様な気分だ。だが、やがて胸の内から温かなものが溢れ出し、張りのある声を促した。店内アピールは高らかに、そして爽やかに響き渡ってゆく。いらっしゃいませ。新商品のベジタブル風味ハンバーガーはいかがですか、と。
そんな人々の姿を、メリーさんは果たして、この世のどこかから眺めているのだろうか。そしてなぜ、名も無き人に干渉するのか。分からない事だらけである。それは最早、人智の外の話なのだ。
ただ確かであるのは、今宵も誰かのスマホが鳴り、心の疲れに寄り添う事だけである。
ピロリ。
――私メリーさん。今あなたのお家の前に居るの。
ピロリ。
――私メリーさん。今あなたの部屋の前に居るの。
ピロリ。
――私メリーさん。お邪魔します。
ピロリ。
ピロリ。
ピロリ。
― 完 ―
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