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プロローグ それはすべての始まりの夢だった件
「…………はっ!」
美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐり、僕は目を覚ました。
鶏を絞めたような声が出て、自分で自分の声に驚く。
眠気は感じなかったけれど、何となく目を擦る。
そして、再び目を開けた時「え?」と思わず声を漏らしてしまった。
何故なら、僕の眼前には大きく、緑が広がっていたからだった。
地平線の果てまで青々と茂る野原。
花の一つや二つすら生えていない、完全な緑。
それ以外何も、視界に入るものはなかった。
そのことから、自ずと一つの可能性に思い当たる。
「もしかして、異世界に転移しちゃった系?」
異世界転移。
それは、フィクションの世界でしかありえない、多くの人々の夢を詰め込んだ理想的な展開。
現実世界で失敗を繰り返す中、異世界に転移したことで、人生をやり直そうと必死に努力する。
その姿に憧れを抱く人が多いからこそ、小〇家になろう、なるサイトでそういう作品がよく読まれたりしているらしい。
まあ、僕はまだ中学三年生になったばかり。
人生をやり直したいとか、そういう気持ちはよく分からないのが本音なところ。
しかしながら、地面に魔法陣が描かれていない。
自分を召喚した魔法使いが近くにいる様子もない。
もう少し、現実的な可能性を考えてみる。
ここに来る前は眠っていた。
そして、何となく体がふわふわした感覚に包まれている。
頬をつねると、鈍い痛みが感じられる。
この三拍子が揃った時点で、すぐに答えは出た。
「なるほど……これは、夢だね」
夢の中で自分が夢を見ていると自覚することはほとんどない。
これほどまでに意識がはっきりしているのは、初めてかもしれない。
異世界転移ではなく夢だと気付いた僕は、落胆するどころか、全身が歓喜に包まれる。
――なぜなら僕は、無類の夢愛好家だったからだ。
物心つく頃から夢が大好きだった僕は、字を書けるようになってからは毎日、夢日記を付けていた。
夢を見た日には、朝起きてすぐ夢日記を書く毎日。
何故こんなにも夢が好きかというと、現実では味わえない、ファンタジーな世界を楽しむことができるからだ。
過去の記憶を元に構成されているという夢。
アニメのキャラが夢の中に登場してきて、会話を楽しんだりすることもできる。
たまに悪夢もあるけれど、楽しい夢の方が多いイメージ。
ランダムに色々な夢を見られるというのも面白い。
そして、起きて数分後にはほとんど忘れてしまうという儚さ。
また、一度見た夢の続きはほとんど見ることができないという儚さ。
その儚さもまた、趣がある。
たぶん僕は、平安時代に生まれていたら、和歌とか好きだったに違いない。
という訳で、夢大好き人間の僕にとって、この意識のはっきりした夢世界は、異世界転移と同じくらい、わくわくさせてくれる世界だった。
嬉しい気持ちに駆られる中、何故かふと、胸の中に寂しさと悔しさが感じられた。
何となく、さっきまで別の夢を見ていて、すごく悲しいことがあったような、不思議な気持ち。
何だろうか、これは……。
「て、あれは何だ?」
そんな心の中のわだかまりは、景色の中に溶け込んでいない、現実離れしたものが目に入ったことで消えていく。
その物体は、パンとビスケットが壁を形成し、チョコレートの屋根がその上に覆いかぶさっている、何とも甘い雰囲気のするもの。
ドアノブは丸いパンでできていて、色とりどりのお菓子が壁を構成している。
まごうことなく、それは小さな小屋の形をしたお菓子の家であった。
「うん、こりゃ完全に夢だね」
夢であることを再認識して僕はその家に近づき、近くでまじまじと観察する。
これは、童話のヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家そのものだ。
小さい頃に読んだ絵本の絵とそっくり。
ということは、ここは童話を舞台にした夢の世界なのだろうか。
男の自分は兄のヘンゼルとして夢を見ているのかな。
じゃあ、グレーテルは何処に?
すると、壁の一つに手のひらと同じくらいの大きさのマカロンを発見した。
「マカロン! 一度食べてみたかったんだよなあー」
普段ほとんど食べる機会のない、ピンク色のマカロンに心が惹かれる。
ジェンガを引き抜くようにマカロンを抜き取り、遠慮なく頬張った。
「……なんか味が薄い」
人生初のマカロンは、拍子抜けするほどに味が薄かった。
一歩間違えれば乾燥剤と勘違いするくらいに。
いや、乾燥剤でしょこれ。
うわ、何かのど乾いてきたし食べなければよかった。
期待外れ感と後悔に苛まれる中、ぽっかりと家に穴をあけたままではよくないと思い、マカロンを再びねじ込んでその空白に埋めようとした。
ネズミがかじりに来たことにでもしておこう。
けれど、その穴を埋めるよりも先に、僕はその向こうに人がいることに気が付いた。
十センチほどの空白の先に、少女が一人。
お菓子の椅子に腰をかけて、机の上にあるフランスパンに手を伸ばしている。
黄色を基調とした服に身を包んだその姿は、肩にかからない程度のショートヘアに、くりくりとした丸い瞳、そして星形のピンバッチをその髪につけていた。
その可憐な姿に、僕は思わず見惚れてしまった。
フランスパンを手に取った彼女は、しげしげとそれを眺めた後、小さな口を容赦なく大きく開けて一口パクついた。
もきゅもきゅ食べる姿を見て、リスのような子だなと思った。。
よく見ると、顔立ちや身長から、歳もそれほど離れていないような気がする。
幸せそうな顔をしてパンを食べる彼女を見て、僕は見ず知らずの彼女に話しかけようと決意した。
もしかしたら、彼女がグレーテルなのかもしれないし、そうじゃないとしても、野原を闇雲に駆け回るくらいなら、彼女と喋っている方がずっと良かったから。
マカロンをその隙間にしまい込み、丸い形をしたパンのドアノブに手を掛ける。
手がべたつかないようにするためなのか、メロンパンや総菜パンではなく、あんパンで作られていた。
その配慮に感謝しつつ、少し固めのあんパンを掴んで、僕は扉を開いた。
「お、おっはよーございまーすぅ……!」
夢の中であえておはようと言う。
これぞまさに夢ジョーク。
決まったぜ。
何て心の中では思っていたが、実際は少女と目が合って少し意識してしまい、挨拶がどもってしまったのだけれど。
僕の存在を認識した少女の丸い瞳が、心なしか少し大きくなったような気がした。
視線の交わし合いが続くこと数秒。
少女は突然立ち上がり、そのままこちらに駆け寄ってくると、行き場を失っていた僕の両手を躊躇ちゅうちょなく握りしめてきた。
な、何事!?
突然の行動に戸惑い、上手く言葉を発せずにいると、彼女は矢継ぎ早に話し始めた。
「やっと来てくれた! 私ずっと待っていたんだよ。ほら、あのフランスパンを二つも食べちゃったんだから。二つだよ、二つ、あんなにでっかいのに!
あ、私の名前は夢葉! 夜寝るときに見る夢に、葉っぱの葉と書いて夢葉だよ!
あなたが来るのをずっと待っていたの!」
「は、はぁ……」
顔をパッと輝かせ、弾丸トークを飛ばしてくる彼女に、僕は驚く暇もなく、ただ小さく言葉を漏らすことしかできなかった。
「あ、ごめんなさい。急に待ってたとか言われても混乱しちゃうよね。ごめんねっ!」
そう言うと、彼女は手を離して一歩後ろに下がった。
解き放たれた自分の手を見つめ、少し名残惜しく感じた心を胸の奥にしまいこんだ。
手の感触が柔らかかったとか、彼女から零れ出る匂いが香しかったとか、そういうのはひとまず置いておく。
彼女が離れたことで一旦心の中が落ち着きつつある。
そんな中、彼女が今言った言葉を思い出し、気になったことについて尋ねてみる。
「えっと、夢葉さんでしたよね。待っていた、ということは僕に何か用事があるんですか?」
「そうだよー。というか、敬語じゃなくて大丈夫だし、夢葉って呼んでくれた方が嬉しいな」
人差し指を立て、前のめりながら腰に手を当て、右目をウインクさせる彼女。
話し方はどう見ても子どもっぽいのに、その仕草は大人っぽく僕の目には映った。
「実はね、私はこの夢世界の住人なの」
「夢世界の、住人!」
夢の住人と聞いて、少しテンションが上がる。
夢について興味のある僕にとって、これは夢について聞くチャンスだ。
夢と初めから気づいていたので、特に驚くこともなかった。
夢なんだから、何でもありなんだろう、と。
夢のような出来事に、つい語頭が夢続きになる。
「そう、あなたも気付いていると思うけれど、ここは夢の中。その夢の中だけで生きていられる、それが私」
「じゃあ、僕の夢の中に住んでいるっていうこと?」
「うーん、大体合っているけれどちょっと違うかも。光くんは共有夢って分かる?」
聞き慣れない言葉に、僕は首を傾げる。
「共有夢? 他の人と同じ夢を見ることかな。……というか今、光って言った?」
僕は自分の名前を夢葉が当然のように知っていることに驚く。
それに気づいたのか、夢葉は僕のプロフィールをつらつらと述べた。
「出席番号二十九番の御影光くんだよね。森山中学の三年生!」
全くもってその通りだった。
夢の住人が現実世界の僕の情報を知っているとか……。
「夢葉って、夢の住人なんだよね。現実世界に飛び出して僕のストーカーでもしていたの……?」
「いやいや、違うってば。たまたま光くんに関する記憶を持っていたからであって……。先に、私の話をしてもいいかな。たぶん、そっちの方が早く理解できると思うし」
「ぜひお願い」
そう言うと夢葉は奥から椅子を一つ持ち出してきて、夢葉が座っていた場所と反対側にそれを設置した。
ここに座って、ということだとすぐに理解する。
夢葉の心遣いに従って椅子に腰かけると、彼女と向かい合わせになる。
最初は純情可憐な子だと思っていたけれど、僕の中で彼女のイメージは、元気な娘に変わってしまっていた。
とはいえ、この世界が夢であるという確証が得られたことで、何となく地に足がついたような感じがする。
食べかけのフランスパンを机の上からバスケットに戻すと、彼女は話を切り出した。
「私の名前は夢葉。夢世界の住人で、断片的な記憶を持っているの」
「断片的な……記憶?」
「うん、さっきの光くんの情報もその内の一つ。そもそも、私は自分が生まれた時の記憶を持っていないの。だから、どうして光くんの夢の中にいるのかも正直分からないの。ごめんね」
「いやいや、謝ることはないよ。ないものはしょうがないし」
記憶がないまま生まれてきた存在。
夢の住人と聞いたから少しは夢について知れるかなと少しは期待していたものの、夢世界がどういうものなのか分からないと言われてしまえばしょうがない。
「それで、結局どうして僕を待っていたの?」
その断片的な記憶の中に自分を待っていた理由が存在するのだろうと何となく察する。
夢の中であったが、今の僕にとっては現実の世界と相違ないものだった。
今度は真面目に耳を傾けよう。
最初の質問を改めて尋ねると、夢葉は髪を耳の上に掻かき上げ、一層目の輝きを強めてこう言った。
「それはね、光くん。あなたに、世界を救ってほしいの!」
非現実的だけど心惹かれるその言葉。
それが、すべての始まりであった――。
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