エピソード7 妄動に支配された件

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エピソード7 妄動に支配された件

「……つめたっ」  全身が冷たい感覚に包まれ、勢いよく立ち上がった。  入った時には出来たてだった温かい湯は既に水と化していた。  頭の中には先程まで見ていた灼熱の光景とそこで味わった悪夢がまだ残っている。  その感覚を追い払うため、僕は再び冷たい水にしばらく潜った。  息が持たなくなったところで鼻の辺りまで水面から顔を覗かせ、正面に映るデジタル時計に目を向ける。  日付は既に変わっていて、時刻は一時半を示していた。  胸に手を当て、自分の心音を確認する。  鼓動は百メートルを全力疾走した後くらい早かった。  自分は生きている。  死んでなんていなかった。  夢は、あくまで夢だった。  その現実を、心の底から実感する。  風呂から出て、体を拭く。  髪の毛も拭いてバスタオルに身をまとうと、鏡に映る自分の姿と目が合った。  両手の拳を開いて閉じてを繰り返し、生を実感する。  そこでやっと、夢葉の存在を思い出す。  心臓の鼓動が更に高まり、血圧が一気に上昇する。  冷水に浸っていたはずなのに、全身が熱気に包まれる。  自分は現実世界に生きる人間だから、夢で死んでも現実ではきちんと生きている。  けれど、夢葉は夢の住人。  夢の中で死んだとなれば、彼女は本当に……。 「いやいや、あれは悪夢だ悪夢。そう、別物。あんなことが本当にあるはずがない」  そもそも夢の侵食というのも、一昨日たまたま見た夢ですでに完結していた。  自分がそれを強く意識しすぎたせいで、今回夢葉が出てきて黒幕も登場する夢を見たんだ。  そうに違いない。 「自分がヒーローになれるはずもないじゃないか。全く、中学生風情が偉そうなことを言ったものだよ」  わははとぶっきらぼうに、鏡に映る自分に対してあれは夢であったと言い聞かせた。  何度も何度も繰り返し、自己暗示をかける。  そうして少しでも、胸の中でざわつく心を押さえようとした。  繰り返すうちに、目が回るような感覚を覚えた。  それでも不安はぬぐえず、何度も、何度も繰り返した。 「そう、あれは夢。夢の侵食なんて、なかったんだ…」 ***  風呂を出て部屋に戻ってからも、その言葉を僕は反復する。  眠気を感じるが眠れるはずもなく、目をうつらうつらさせながらも窓の外を眺め続け、朝日が昇り始めたところで一階に下りた。  時刻は六時半。  いつもならすでに起きている時間に、母は未だすやすやと和室の向こうで眠っている。 「今日もコンビニ飯だー」  母の財布から千円を取り出してコンビニに向かう。  店内に入り、朝食用のおにぎりと一緒に昼食用のパンも一緒に購入する。  コンビニから家に戻っても、母は起きる気配がなかった。 「そっかー、今日は母さん仕事が休みなんだー」  母の眠る姿を見てそう呟く。  ソファに体を収め、おにぎりをゆっくりと頬張りながらテレビの電源を付けると、 『遅刻、欠勤の相次ぐ会社員達。今の日本に一体何が!?』  というテロップの張り出されたニュースが流れていた。  チャンネルを変えても、同じような報道が行われている。 「倦怠期ってやつが一斉に起きたんでしょー。みんな慌てすぎー」  朝食を食べ終え、制服に着替えて家を出る。  昨日自転車を学校に置いていったこともあり、今日は徒歩での登校。  自転車で三十分の距離を歩くには、その倍以上の時間がかかる。  七時に学校を出たものの、学校に着いたのは八時五分だった。 「御影さん、おはようございます」  教室に入ってすぐ、水無瀬が挨拶をしてきた。  僕もそれに応えておはよーと告げる。  彼女の顔を見ずに。 「御影さん、顔色が悪いですけれど、大丈夫ですか?」  心配そうに尋ねる水無瀬に、僕は「平気平気」と言い、 「大丈夫だよ―夢葉。あ、夢葉じゃないんだっけ。そもそも夢葉は夢にしかいないし、水無瀬さんは現実にいるもんねー。じゃあ問題ないかー、何を言ってるんだろー」  呂律の回らない、意味不明な言動で返した。  何言っているんだろー。  次の休み時間。  水無瀬は僕に保健室に行くことを提案してきたが、「大丈夫だってー。心配ないさー」と返しておいた。  今日の欠席者はクラス内だけでも七人と昨日より増加していた。  先生の出勤率も減り、代理の先生も間に合わず、自習の授業が増えていた。  たったの二日で大きく広がり始めた社会現象に、生徒の誰しもが不安の心を持ち始めた。  そのせいなのか、今の自分に声を掛ける人は、水無瀬以外いなかった。  その日も僕は眠ることはなく、夢遊病のように部屋を歩き回り、一夜を過ごした。  そして翌日も、その翌日も、睡眠不足からか、ふわふわとした感覚がなくなることはなく、時折授業中に立ち上がると訳の分からない言動をすることもあった。  しかし、それを止めるはずの先生は不在。  その頃には先生の三分の一が学校を休み、クラスメイト達も三分の二にまで減っていた。  ふわふわ~。 *** 「御影くん、ちょっと来てくれませんか?」  不眠が続いて三日が経った金曜日の昼休み、水無瀬は僕の腕をつかみ、中庭に強引に連れてきた。  それまでは昼休みになると、僕は水無瀬を避けるように教室を離れ、いつも校舎の影となる場所でご飯を食べていた。  水無瀬が追いかけてくると、トイレの中へと逃げ込み、そのままチャイムが鳴るまで出なかったが、今日は捕まってしまう。  ずいずいと引きずるように僕は連れ出され、中庭のベンチに強引に座らせられた。  瞳はゆらゆらと揺れ、視線を彷徨さまよわせる僕に対して水無瀬は言った。 「御影くん、どうして私を避けるんですか! 一緒に、一緒にご飯を食べると、約束したじゃありませんか!」  ガラにもなく声を張り上げる水無瀬。  その質問に、クラクラと目を回しながら答える。 「えー避けてなんてないよー。約束ぅー? そんなのしたっけぇー」 「いいえ、ちゃんとしました。御影くんが忘れているだけで……。いえ、本当は覚えていますよね。私を避けるために必死に忘れようとしているだけですよね!」 「何のことかさっぱり分かんなーい」 「ほら、御影くんはそんな言動をする人じゃなかったですよね。もっと正義感が強く、弱い女の子に手を差し伸べてくれる、優しい人でしたよね!」 「へぇーそうだったのー。僕ってすごいねー」  ゆらゆらと頭を揺らす。  水無瀬が褒めてくれた―。  嬉しいなー。 「正気に戻ってください! ずっと孤独だった私を、暗闇に閉じ込められていた私を、たった一日で引きずり出してくれたあの御影くんに!」 「一体誰のことを言っているのー? えー、もしかして僕のことー?」  水無瀬が何を言っているのか分かんなーい。  あー、頭の上で鳥がくるくる回ってるー。 「そういえば、夢の中にいるって言っていた夢葉さんとはどうなったんですか?」  夢葉、という単語が耳に入り、全く合っていなかった焦点が一時的に元に戻る。  交わされる水無瀬との視線。  彼女の眼差しが少しだけ柔らかくなるのが見えた。 「……夢葉さんと、何かあったんですか?」
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