崙馬伝

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 後の顛末について、剛顔は実に筆少なであった。  崙馬の逃亡が明らかになると、兎崙姫は自ら申し出て一身に責を負った。  対して下された沙汰は、右足を落とすというものであった。  剛顔の分まで咎を請け負ったか否かはわからないが、彼は後宮を追われて野に下った。  荷物もまとめず、書き溜めた文書も携えずして離れたというから、あるいは皇帝が死罰を与えんとしたところを、先帝に仕えた同輩が諌める傍ら、急ぎ去らせたとも考えられる。  とにかく、剛顔の記録はそこで途絶え、必然、兎崙姫に関する足跡も同じく途絶する。  なので、ここからは空想を逞しくする他ない。  一応、貞治十二年の七月二十七日であったということまでは判然している。  夏の盛りを迎えたその日は朝から曇りがちで、息をするにも苦労を覚えるほどに蒸し暑い日だった。  兎崙姫は常のごとく杖足をついて東華庭園に遊び、四阿で涼んでいた。  崙馬が昇天し、剛顔が去った後、言葉を交わす者もいない兎崙姫は全くの一人であった。  気の滅入る暑気にも関わらず、兎崙姫は汗一つかかずに庭園を眺めていた。  熱気を帯びた杖足の継ぎ目はじくじくと痛むが、籠の中で飼い殺しにされる身が皇帝に一矢報いた証と思えば、何ほどのこともない。  兎崙姫は杖足を撫でさすりながら、遠方の空から近づきつつあるくぐもった雷鳴に耳を傾けた。  どうやら激しいものが一雨きそうである。  その前に室へ戻るべきであろうが、腰を上げるのがどうにも億劫だった。  しまいにはこの四阿で形ばかり難を逃れるのも悪くはないと考え、兎崙姫は目を閉じて雨音が聞こえ始めるのを待った。  しかし、耳に届いたのは雨粒が屋根を打つ音ではなく、蹄の地を蹴る軽やかな音だった。  目を見開いた兎崙姫の前には、さながら天から落ちてきたかのごとく、崙馬の姿があった。  全身にひとまわり以上も肉がつき、いっそう精悍な体つきとなっている。  ねじれた純白の角は真っ直ぐ伸びて黒く輝き、その代わり、黒かった瞳には雷光の欠片を思わせる青い光が灯っている。  猛々しく成長した姿の崙馬は、しかし変わらぬ愛嬌で兎崙姫に近寄ると、懐かしむように鼻先を擦り付けた。 「立派になったものだの」  兎崙姫も感慨を込めて呼びかけた。 「ぬしも変わったが、妾もだ。見よ、お揃いであろ」  杖足を持ち上げて見せると、崙馬は不思議そうに臭いを嗅いだ。  そして不意に頭をもたげると、鋭く嘶いた。  雨の気配に重苦しく澱む空気をつん裂き、天に突き刺さる嘶きである。  呼応するように、突如として頭上で雷鳴が鳴り渡った。  光の破裂と轟音に、兎崙姫は身をすくめた。  落雷は四阿の北西、宮殿が並ぶあたりに落ちたようである。  かすかな喧騒とともに伝わってくるのは、何かの焦げる臭いであった。  兎崙姫が目を瞬かせている間にも、崙馬は二度三度と続けて嘶いた。  その都度、雷電が天から走り、彼方此方で悲鳴が上がった。  雷鳴の連続は大宮を通り過ぎ、皇城にまで及びつつあった。  落雷の後には火の手がそこかしこで上がり、煙が東華庭園にまで流れてくる。  兎崙姫は呆気に取られたまま、崙馬を呆然と眺めた。  崙馬はひとしきり嘶いてから、突然、その場で膝をつき背を屈めた。  そのままじっと兎崙姫を見つめる姿は、催促するかのようであった。 「乗れと云うか」  呟きながら兎崙姫が背を撫でると、崙馬はうべなうように頭を振った。 「何処へ連れて行くのであろ」  しばし逡巡した兎崙姫だったが、意を決して崙馬の背に跨った。  兎崙姫の杖足と崙馬のそれがぶつかり、乾いた音を立てた。 「否、何処でも構わぬか」  兎崙姫が首筋をひしと抱きしめるのを待ち、崙馬は勢いよく立ち上がると、また一つ嘶いた。  落雷が四阿に落ち、たちまちに炎に包まれるのを見届け、崙馬はゆっくりと脚を宙空へ踏み出した。  火の手の上がる宮城と庭園を空から見下ろし、兎崙姫は独りごちた。 「放たれてみれば、籠とは存外に狭いものだの」  応じるように嘶きを残し、崙馬は天を翔る速度をぐんと上げた。  雷鳴をまとい曇天を走り出した一人と一頭の行方は、今も杳として知れない。
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