崙馬伝

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 年明けて貞治十年の頭、完成した杖足が届けられた。  職人の考案で馬体に取り付けるため工夫された金具も添えてあった。 「あれが大人しく取り付けさせるとは思えませぬが」  医官の室で兎崙姫に一式を見せながら、剛顔は眉をひそめた。  西域の寓話ではないが、猫に鈴を付けるより遥かに厄介である。 「そなたの案ずるところではなかろ。妾が片付ける」 「だからこそ案じておりまする」  兎崙姫は取り合わず、一通りの説明を聞いただけで、あとはもうよかろと剛顔の諫言を遮った。  そして、宦官に命じて杖足の入った木箱を東華庭園へ運ばせ、誰も近寄らぬようにと人払いをしてしまった。  それでも剛顔が木陰から密かに見守ったのは、馬に杖足を添えるという酔狂に己が関わった末、下級といえ姫が頭を割られて亡くなりましたでは済まぬと考えたからであろう。  大の男に止められぬものを杖足を付きながらどうかできるとも思えないが、何かしら策があったのやもしれない。  剛顔は仔細を残しはしなかったが、崙馬と兎崙姫との間に悶着があったのは確かなようである。  頭を割られこそしなかったものの、兎崙姫は額に傷して三針縫ったとある。  執刀を担った剛顔は施術の記録に添えて、姫のいさおしこそ甚だしいものであると書き記している。  もっとも、その甲斐はあり、結果は成功だった。  始めこそ杖足を邪魔そうに引きずっていた崙馬だが、三日も経たないうちに慣れ、生身の脚と仲良く動かし、庭園を駆け回るようになった。  兜のごとく不恰好な包帯を巻いた兎崙姫は、その姿を子を見守るような目で追い続けた。  剛顔はといえば、脚を負傷した馬に広く杖足を与えるという案を起草することにした。  無論、正式に奏上するつもりなど毛頭ないが、軍部か礼部の知人にちらりと耳打ちすれば、あるいは彼らなりに何か思いつくやもと考えてのことだった。  時を同じくして後宮に軽い熱病が流行ったこともあり、日中、剛顔はあちらこちらへ看病と女官への指示に駆り出された。  必定、書き物に割く時間は夜も更けてからとなる。  奇しくも満月となったその夜も、剛顔は燭を灯して筆を走らせていた。  理を奉じて学に礼する医人の端くれ、虫の知らせなどと曖昧なものを信じるわけではないが、剛顔をして東華庭園に走らせたのは、何であったか。  粥の上澄みのような淡く白い月の光に染め上げられた庭園に、人馬一対の影を認めたとき、剛顔の心中に去来したのは一抹の不安であった。  兎崙姫は崙馬の首をかき抱き、まるで別れを惜しむように頬を擦り合わせていた。  崙馬も少しなりと兎崙姫に近づこうとするように巨体をすくめ、か細い悲鳴のようないななきを漏らしていた。  剛顔が静かに近寄ると、それは警戒の色も露わな威嚇のうめきへと変わった。 「誰か」  兎崙姫は振り向かずに誰何した。 「剛顔に」  剛顔は少し離れた場所にとどまって尋ねた。 「最初からそのおつもりでしたか」 「否、と答えるべきであろ」  兎崙姫はようやく崙馬の首まわりから手を解くと、向こうへ押しやるように優しく突いた。 「妾も杖足で飛べるとは夢想だにせなんだ」  崙馬は兎崙姫にあらがい、赤子がむずかるようにまた体を寄せようとした。 「昨晩、此奴が鳴いておるのに気づいてな。様子を見に来ると、しきりに角を振って月を仰いでおる。なにやら妙だとうかがっておれば、月の光を踏んで宙を駆けるではないか」 「月の光を」 「そうとしか言えぬであろ。此奴が蹄で踏まえたところが、透けた氷のごとく固まるのだ。仙寿経には雲を踏まえてとあるが、注をいれねばなるまい」  珍しく上機嫌に云う兎崙姫だったが、剛顔は押し黙ったまま続きを促した。 「そのまま昇天するのかと思っておったが、中途で妾に気づいたようでな。慌てて宙から駆け降りてきよった。世話を焼いた妾のことが心残りだったのであろ」  兎崙姫は崙馬のたてがみを指で梳ってやりながら、夜黒の空を仰いで云った。 「しからば今宵こそ九天まで昇らせようと、こうして別れを交わしておる」 「恐れながら、なりませぬ」  剛顔は慌てて止めた。 「崙馬は皇帝陛下の厩に繋がれたもの。それを逃したとあっては、命がございませぬ」 「だからこそだ」  姫は首をめぐらせ、肩越しに剛顔を振り返った。  光の加減であろうか。その瞳は崙馬のそれと同じく、悉皆黒に塗りつぶされて見えた。 「あの男が少しでも悔しがるというのなら、妾の首など喜んでくれてやる」  剛顔がしばし絶句したのは、言うまでもない。 「なにゆえ、そこまでのお覚悟を」 「血の仇だ」
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