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記録によれば、西陽那把哩国の姫が輿入れしたのは貞治六年の春である。
口さがない女官の日誌に曰く、器量は十人並み。微かに痘痕の残る平坦な顔のつくり、齢十五にして不気味に達観した空気をまとい、声は老婆のごとく嗄れていたとある。
受け入れる央華の朱としても、多分に人質の意味合いの強い縁組であったことは、爾後三年間というもの、公の記録にまったく顔を出さないことから伺い知れる。
皇帝の寵を受けることなく、後宮のいち草木として捨て置かれたのであろう。
兎崙――というのがその姫の名であるが――が再び史に登場するのは、西域からの献上品に関連してである。
貞治九年の四月、西の果てを越えた先の異国から参じた使者が、一頭の馬を献上した。
額にねじれた一角を生やし、右の前脚が膝より下欠けた奇妙なその白馬を、使者は「崙馬」と呼んだ。
その性すこぶる珍にして瑞、いわゆる神獣であり、ひとたび嘶けば、雲を踏まえて八千里を翔ける。
長ずるにつれ天に近づき、やがて角に雷を蓄えて、龍王麾下の雷部となる。
脚を一本切り落としているのは、天に昇るを阻み、地に留めおくためである。
当代の皇帝が使者の口上にどのような受け答えをしたかはわからない。
が、彼の皇帝について後世書き立てられた数限りない悪評のうち、すこぶる惨具を嫌ったという一点は真実であろうことからして、脚の足りない馬を快く受け取りはしなかったであろう。
事実、崙馬は即日後宮に下げられた。
物珍しさから見物に集った女官宦官たちだが、その感想は一言に集約されている。
暴れ馬。
世話を下知された庭師や下人のうち、あるは後ろ脚でしたたか蹴られて骨を折り、またあるは角で危うく突き殺されかけるという始末。
見守る見物たちも巻き添えはごめんと遠巻きになる中、ひとり進み出た者がいた。
兎崙姫である。
供回りが止めなかったところを見るに、付き人不在が常であったのだろう。
後宮での扱いがうかがい知れるが、当人は涼しい顔で人垣をかきわけ、荒れ狂う崙馬の前に立ちはだかった。
一歩進んで拱手し、足を三度踏み鳴らし、一歩下がり低頭する。
高位の坊主か貴族が儀礼の場で、己より偉い者に相対したときにのみ行う、お高い礼法である。
それを馬相手に大真面目にやってのけた兎崙姫を、周囲の誰も笑わなんだのは、右に左に旋回して暴れていた馬がぴたりと止んだからである。
黒い硯石のような両の瞳で兎崙姫を見すえ、やおら一角の突き出た額を二度三度と振り、それから確かに頭を垂れた。
馬が礼を返したように見える光景に、その場に居合わせた者たちはひとり余さずざわめいた。
しかし、渦中の当人は喧騒をうっちゃり、さっさと踵を返してその場を去ってしまった。
崙馬は崙馬で、満足したように膝を折って地面に転がると、見物に背を向けて寝入った。
かくして献上品を巡る騒動は落着し、爾後崙馬の世話は姫の助を借りるという形でおさまった。
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