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「あっ…。」
やってしまった。
つるりと手の内から逃げ出したマグカップは音を立てて流し台の縁にぶつかると、そのまま床へと転がった。
慌てて手についた泡を流して拾い上げるも、マグカップと呼べる代物でなくなったそれは綺麗に本体と取手の部分で分かれている。
この部屋に通う様になってからはや数年。
果たしていつからここにあったかは知らないが、随分と年季が入っているそれはきっと思い入れもひとしおだろう。
とりあえず掃き掃除を…。
知らずに足でも切ったら大変だ。何せここの家主は裸足で歩き回るから。
「なんか大きな音がしたけど、どしたー?」
勝手知ったる部屋の中から小ぶりなホウキを見つけ出した時、背後でドアが空いた。
お風呂上がりの彼はタオルを首にかけたまま、まだ湿った髪を拭き上げている。
足元は想像通り裸足だ。
「ごめん…、落として割っちゃった…。」
慌てて現場に入らぬよう堰き止めながら証拠品を提示すれば、あらら、なんて言いながら彼は取手をつまみ上げた。
「素手で触ったら危ないでしょー?怪我は?してない?」
「へいき。」
「ならいいけど。」
指切ったら痛いからね、なんて言いながら手早く厚手のビニールへ欠片を放り込んで、口を縛った。
その間に私は床を軽くホウキで掃いて、
といっても綺麗に2つに割れたせいか欠片は見当たらなかったけれど。
「ごめんね…。」
「いーよ、長く使ってたし買い替え時でしょ。」
「でも…。」
なおも食い下がる私に、彼は眉尻を下げて笑った。
優しい彼が怒ることはないだろうとは思っていたが、それでも私の気持ちとしてはやはり居た堪れないものがある。
「じゃあさ、明日デートしよっか。そこで新しいの選んでよ。」
楽しみにしてるね、なんて。
気遣いなのか本心なのか。残念ながら分からなかったけれど、そんな所がきっと好きになった所以なのだ。
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