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仕事を終えた私がアパート前の公園を横切ったとき、時計は9時を少し回ったところだった。
通りの向こうに見えるアパートの隣家の窓からは、リビングに設えれた電球が定期的に明滅を繰り返す色とりどりの明かりが漏れ、漆黒のアスファルトに幾重にも広がる色彩のベールを着せている。
車通りの途絶えた道を渡ってアパートの細い通路へ足を踏み入れたとき、不意に懐かしい香りが鼻腔を駆け抜けた。
いや、鼻腔を駆け抜けたような気がした、と言うべきだろう。
私が大好きだった甘く優しい香りは、今となってはもう誰も再現できないのだから。
玄関に鍵を差し込むと、どういう訳か鍵はもう開いていた。
きっと柳太が締め忘れたのだろうが、子供ひとりの部屋には不用心な話だ。
女手ひとつで過酷な仕事と子供の安全を守ることを両立させることが、どれだけ心と身体を削るのかを全く理解していないらしい。
ただ守られるだけの立場がどれだけ気楽か理解させるためにも、柳太にはあとで少しきつめに言い聞かせてやらないといけない。
意図せず漏れたため息が、投網のように玄関の戸の上を不規則に広がってゆく。
柳太が寝てしまっていることを想定して私はゆっくりとドアを押し開け、ただいまも言わずに玄関へ足を踏み入れた。
いつもならこの時間はすでに柳太は布団の中か、遅くとも風呂上がりでパジャマ姿のはずだ。
しかし廊下の奥にあるリビングから明かりが漏れている割には、いくら鼻を動かしても石鹼の匂いがしない。
これはすなわち、柳太がまだ風呂にも入らずリビングにいるということに他ならない。
舌打ちの甲高い音が、狭い空間に幾重にもこだました。
きっと新しいラジコンカーに夢中になり、やることもやらずに時を忘れて遊び惚けていたのだろう。
私はこの結果を予測できずにまんまとラジコンカーを買い与えてしまった自分の浅慮がほとほと嫌になり、靴を脱いですぐに壁にもたれかかった。
どうして私の行動は昔から裏目に出てしまうのだろう。
プライドを守るため感情的になったせいで和樹を失い、その反省を踏まえて柳太には可能な限り感情を表に出さず、柳太のためになることだけを指示してやらせてきたはずなのに。
それなのにどうして、休日である土曜日まで私が身を粉にして働いている苦労すら慮らずに、9時には寝るという簡単な言いつけすら守れないのだろう。
私は壁にもたれたまま、自分の浅はかさと柳太の幼稚な行動に溢れそうな涙を抑えるのに必死だった。
柳太の前では泣いてはいけない。
和樹と私の子供を世界で唯一守ることのできる私が、そう簡単に弱い母親であると見透かされてはいけないのだ。
知らず知らずのうちに拳に力が入るが、それはやがてだらしなく解ける。
いや、本当は分かっている。
私は和樹を失ってから、救いようなく傲慢になってしまったのだ。
柳太を守るため、安全に過ごさせるためなどと言い訳をしつつ沢山のルールで彼をがんじがらめにして行動の自由を奪い、私の思い通りに言いつけに従う人間を作ろうとしているだけなのだ。
それが私が仕事に生きるための条件なのだ、と自分にうそぶいてまで。
そんなこと、子供は自由に遊んでいるときがいちばん成長するんだ、と言っていた和樹が望むはずなどないというのに。
「和樹……、私、どうしたらいい?」
囁くように漏れた言葉は、私の頬を伝った涙を含んで天井へと消えてゆく。
今は怒ってはいけない。
そう固く心に誓って開けたドアの先には、違和感がいくつも渦巻いていた。
私は思わず声を漏らしそうになったが、いつもの光景と違う箇所をひとつひとつ確認していくうちに小さく吹き出した。
柳太がソファーの上で大の字になって、いびきをかいていた。
今までいちどもそんなことをしたことなどないのに、だらしなく伸びた腕や中途半端に組まれた足は、まるでそこに小さな和樹が寝ているようだった。
懐かしさと可笑しさがないまぜになって上がった口角を下げながら私は端から順に部屋を見渡す。
目を凝らさずとも、壁に貼られた絵が外れていたり、片付けが苦手なはずなのにラジコンカーがきっちりと元の箱に入って部屋の隅に置かれていたりと、小さな違和感が私の視覚を通して次々と飛び込んできた。
そんな私の目が一点でぴたりと止まった。
キッチンのシンク周りには、何に使ったのか分からないがボウルや菜箸、出しっぱなしの調味料がまとまりなく乱雑に置かれている。
包丁を使わせたくない一心で私がキッチンから遠ざけていたおかげで今までただのいちども料理に興味を持つことすらなかった柳太が、いったい何を作ろうとしたのだろうか。
だいいち、夕飯には肉団子とサラダと、釜の中には十分な量の白米を用意してあったはずだ。
いくら食べ盛りとはいえ、それだけでは足りなかったのだろうか……。
私は力なく横たわったマヨネーズをつまみ上げながら柳太へ目をやった。
なにはともあれ勝手にキッチンを使い、あまつさえ出したものを片付けていないというのは𠮟るに値する行動だ。
私はマヨネーズを持ったままソファーに近づき、気持ちよさそうに眠っている柳太を視界に収めながら大きく息を吸った。
やめろ、という声が聞こえた気がした。
「柳太、起きなさい!」
刹那、身体をびくりと震わせた柳太はソファーにちょこんと座ったまま、慌てたそぶりで辺りをせわしなく見回した。
「あれ、サンタさん、どこ?」
私はその悪びれない態度に眉間に皺が寄るのを自覚しつつ、出来るだけ感情のない言葉と表情で怒りを表した。
「いったい何を寝ぼけてるの? 今、何時だと思ってるの? それに」
サンタなんているわけないでしょ。
言葉の流れに任せてそう言いかけた自分が恐ろしくなり、私は唇を噛んだ。
目の前の柳太は、ひどく寂しそうな顔をしている。
まるで大切な何かを失くしてしまったときのような、2年前のあの日、鏡に映った自分の目と同じ、現実を突きつけられたときの目をしていた。
「柳太。まずは、おかえりなさい、でしょ? ママは今日も働いて帰ってきたのは分かるよね? それから、ごめんなさい。宿題は終わってるようだけど、まだ寝てないどころかお風呂にも入ってない。キッチンは片付けないでほったらかし。ママとの約束、破ったよね?」
目の前でマヨネーズをぶらぶらと揺らしてみせると、柳太はさらに苦しそうな顔になって俯いた。
お前は何をしてるんだばかやろう、と頭の中で声がした。
「ママ、おかえりなさい。あと、起きててごめんなさい」
柳太はズボンの上にいくつも涙を落としながら、絞るように声を出した。
それでいい。
これで自分の犯したことがいかに間違っているか分かっただろう。
私はいちど謝ったらそれ以上は怒らないようにしている。
罪を認めさせ、苦しい思いをさせることで、何が正しいか、どちらが守られている立場なのかを自覚させられればそれでいい。
きっとそれが今後の柳太のためになるのだ。
そう信じるしか、なかった。
私がそっと両手を伸ばすと、柳太の身体に俄かに力が入るのが分かった。
怯えているのかもしれないが、そんなことは関係ない。
私は叱ったあとは必ず強く抱きしめてやることにしている。
父親がいない分、厳しい躾けと優しさを両立させてやらねばいけない。
私だって、辛いのだ。
柳太はそんな私の意図を汲んだのか、ゆっくりと私に抱きついて胸に顔をうずめた。
温かさがコート越しに伝わってくるようだった。
「あのねママ、今日ね、サンタさんが会いに来てくれたんだ」
柳太の言葉は柔らかな熱を纏って私の乳房を撫でる。
何が欲しいのか聞いていなかったが、楽しそうな口ぶりからあのラジコンカーを気に入ってくれたことが伝わってきた。
「そう、良かったわね。プレゼントは何をもらったの?」
視界の隅に映る箱をできるだけ見ないようにしてそう問いかけると、どういう訳か柳太は黙ってしまった。
そこで私は柳太の言葉がおかしいことに気づいた。
サンタさんが会いに来てくれた。
つまりこれは、柳太が直接サンタを見て、話をしたということだ。
しかもその言い回しは塾の帰りに街中でサンタのコスプレをした人に会った、ということではなく、柳太に会いに来た、という意味になる。
「ちょっと待って柳太。今、会いに来てくれた、って言ったよね? え、サンタはどこに来たの? 塾? ……まさか、まさかここに誰か入れたの?」
自分の内側から、冷静さが鯨が潮を吹くように失われていくのが分かった。
柳太がこの部屋に誰か知らない人を入れたのだとしたら、この部屋に散りばめられた違和感や玄関の鍵が開いていたことに説明が付く。
得体の知れない、サンタを名乗る人間がこの部屋にいた。
想像しただけで一気に血の気が引いた。
まさか、まさか柳太が、知らない人を家に入れるような子供に育ってしまったなんて。
私は震える手で柳太を胸から引きはがすと、真っすぐに視線を合わせた。
「柳太、正直に言いなさい。この部屋に誰か来たのね?」
私の手の中で柳太が頷く。
「それでその人は何をしたの? 嘘ついてもだめ、すぐに分かるからね」
抑えようとしても視線に力がこもる。
「色んなお話した。僕のことやママのこと。あと…」
口ごもった柳太の視線は、キッチンへと向けられた。
私がその方向へ目を向けると、そこには冷蔵庫があった。
「冷蔵庫がどうしたっていうの。まさかその人は冷蔵庫を勝手に開けたの?」
「違う!! 勝手に想像して、悪く言うな!!」
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