サンタがジャージでやってきた

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 柳太が初めて口にした私への反抗は、驚くほど胸の奥にまで喰いこんだ。  思いもよらない大声に慌てて振り向くと、目を真っ赤にした柳太が私を憎らしげに睨んでいる。  強い意思を宿した生意気な目に対して反射的に平手打ちの態勢に入ったが、柳太は怯えることもなく目を見開いて私を射るような視線で捉えている。  平手をお見舞いしようとしたはずの私の方が、柳太の気合いに圧されて思わず手を離してしまった。 「サンタさんから教わって、ママのために僕が作ったんだ! 僕たちでママにクリスマスプレゼントを作ろう、って、サンタさんが言うから、っ……」  そう言うと柳太は立ったまま声を上げて泣き出した。  私はふと、我に返った。  こんなに感情を露わにする柳太を見るのはいつ以来だろう。  記憶を遡ってみると、和樹がいなくなってから、いや、私が柳太に対して感情的に接しなくなってからいちども本気で怒ったり泣いたり、笑ったりする姿を見ていないような気がする。  ……もしかして私は。  私は、取り返しのつかないことを……。  いや、やめておこう。  ここで今までやってきたことが間違いだと悔やんだところで、柳太には私しかいないのだ。  精神的に父親と母親の両性を具有した私しか、柳太を正しく導ける人間はいないのだ。  私は泣き声を背中に受けながらふらふらとキッチンへ向かった。  マヨネーズを置き、冷蔵庫を開く。  違和感が冷気とともに流れ出す。  いちばん上の棚には何かが乗った皿が置かれ、丁寧にラップがかけられていた。  恐る恐る取り出すと、それは一見して卵焼きだと分かった。  ひとつにまとめることができずにみっつに分断された、形の悪い、少なくとも美味しそうには見えない、悪く言えば出来損ないの卵焼きが、まだほんのりとした熱を孕んだまま私の手の上にあった。 「これ……、これを柳太が作ったの?」  柳太は目をガシガシと手の甲でこすりながら、うん、と頷く。  しかし、何のために?  私は卵焼きと柳太の間に視線を何度も往復させた。  なぜ柳太はわざわざこんなものを私に?  いや、それ以前にそのサンタとやらはなぜ柳太にこれを作らせた?  疑問が次から次へと湧いてくるが、私は誘われるようにそれをレンジへ入れ、オートのボタンを押した。  低い作動音と共に湧き起こる電磁波の振動が、構成する水分子を震わせながら卵焼きを温めてゆく。  私はただそれを眺めていたが、20秒ほどして心臓が高鳴り始めていることに気づいた。  懐かしく、甘い香りが漂っていた。  しかし身体も脳も気付いていることを、私の記憶だけが頑なに認めることを拒んでいる。  私は軽快なメロディーとともに温め終わったそれをレンジから取り出し、テーブルに置いた。  ラップを外すと、ふわりと湯気が立ち昇る。  湯気の向こう、目の前の椅子に座ってこちらを見ている柳太と目が合った。 「食べて、いいのね?」  馬鹿げた質問だったが、そうでもしないとこれが現実なのかどうかさえあやふやになるほど、私の記憶は揺さぶられていた。  黙って頷く柳太を確認してから、いちばん小さな塊を口へ運ぶ。  和樹が作った卵焼きの味がした。  信じられないという驚きと、純粋に自分好みの味がいっぱいに広がったことで、私の口から掛け値なしの賛辞が転がり出る。 「美味しい。美味しいよ、柳太」  私の記憶が悲鳴を上げている。  有り得ないことだと、歯ぎしりしながらのたうち回っている。  しかし私の感覚神経のすべてがそれを否定し、和樹が作ってくれた味と同じなのだと叫ぶ。  そのせめぎ合いはしばらく続いた。  大好きだった、砂糖と少しの醤油と、隠し味にマヨネーズを使った卵焼き。  どうやっても再現できなかったあの味が、私の口の中で解れてゆく。  それに呼応するかのように、もう二度と口にできないと思っていた懐かしい味が否応なしに私の感情を後押しする。  うええええ……。  私の突然の涙を見て、柳太は不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいる。  私は柳太が見ていることなどお構いなしに、声を上げて泣いた。  泣きながら、柳太が会ったというサンタクロースの正体を理解した。  和樹だ。  今日、オフィスで祈った私の願いを聞いてくれた和樹が、柳太に会いに来てくれたのだ。  あの日、私が思ってもいない言葉で罵倒してしまったせいで、家を飛び出していった和樹。  それから1時間後に単独事故を起こし、亡くなってしまった和樹。  その和樹が、会いに来てくれた。  サンタとして、父親として。  まだパパが死んだと知らない柳太の元へ。 「ありがとう、和樹ぃ……」  嗚咽の合間に思わず漏れた名前に柳太が反応した。 「違う! サンタだよ! しばらくはサンタだって言えって言われたもん!」  分かりやすい嘘に、少しだけ涙が引くのが分かった。 「いいのよ、嘘つかなくて。パパが会いに来てくれたんでしょ? 実はママ仕事中にね、パパが柳太に会いに行ってくれますように、ってお祈りしたのよ」  涙をぬぐいながら途切れ途切れにそう伝えると、柳太が納得のいかない顔を浮かべた。 「僕だって家に着いたとき、パパに会いたいってお祈りしたもん!」  家に着いたとき、ということは、おそらく夕方の5時頃だろう。  私が休憩室に入ったのがちょうどそのあたりだったはずだ。  と、いうことは。  偶然、私と柳太が同じ時間に同じ願いを口にしていたことになる。  実に都合の良い解釈をすれば、そのお陰で奇跡が起きたということだ。 「柳太、教えて? パパとどんなお話したの?」  私は柳太から、少しでも和樹の話が聞きたかった。  柳太はそれがわかっているのかいないのか、首をひねりながらこちらを見る。 「僕の描いた絵のこととか、ママが忙しいこととか、あとはね、ママは本当は泣き虫で優しいのに、無理してるって教えてくれた」  頭を、があん、と力いっぱい殴られた気がした。 「きっとママの性格だと、自分が全部抱え込んで無理をしちゃうだろうって。そのせいで周りも自分も見えなくなったらだめなんだって」  確かに和樹が死んでからどうにか父親の代わりになろうと懸命にもがいたことは、限界に近い私の心と身体を蝕んでいた。  そのせいで心にいつも余裕がなく、仕事では成果が出せず、その苛立ちを柳太にぶつけないように無感情に接してきた。  そんな、いわゆる負のスパイラルに陥るであろうことを、和樹はずっと前から看破していたのだ。 「でもね、ママは今の仕事を続ける限り頑張り過ぎちゃうんだって。だから、もしママが仕事を辞められるなら、一緒に生まれた街に帰りたいって言ってたよ」  脳裏に、どこまでも続く田園風景とその向こうの山々が浮かんだ。  唐突に、私と和樹の両親に会いたくなった。 「そっか。パパはそんなこと言ってたか。でもそうすると、柳太は塾にも通えなくなっちゃうよ? 勉強が遅れちゃうけど、それでもいいの?」  柳太はその言葉に分かりやすく下を向いた。  やはり私の思うとおり、勉強の大切さが身に染みているのだろう。  何かを言いかけてはやめる、を繰り返す柳太を見ながら、私は次の言葉を待った。 「僕、本当は……。お勉強させられるのが嫌い。でも、成績が悪くてママに怒られるのはもっと嫌い」  柳太は少しだけ震えていた。  どさくさ紛れかもしれないが、苦しそうに吐き出した言葉は、ずっと私に言いたかったことに違いない。  子供は自由に遊んでいるときがいちばん成長する。  和樹はいつもそう言っていた。  私はその言葉を完全に無視し、柳太を時間とルールで縛り、仕事の邪魔にならないように独立心を育ててきたつもりだった。  けれどそれらは詰まるところ良い子という名の自分にとって都合のいい子供を育てるための方便であり、柳太自身の成長とは無関係だったのだろう。  ああ、次々に私のしてきたことが否定されてゆく。  たとえ否定されたとしても、それを受け入れなければいけないのは分かっている。  ただ、このままではあまりに救いが無さすぎる。  やはり和樹は、あの日のことで私を恨んでいるのに違いない。  焦燥と後悔で溢れかえる私の脳に、柳太の屈託のない声が響く。 「僕ね、お勉強も嫌いじゃないけど、やっぱりお友達とも遊びたい。ばぁばの家の近くにあるみたいな原っぱで、お友達や、パパとママと鬼ごっこしたい」  私と和樹、柳太の3人で野原を駆け回る光景を思い浮かべて、はっとした。  さっき柳太は、和樹が一緒に帰りたいと言っていた、と言わなかったか?  和樹が私を恨んでいるのだとしたら、そんな心底憎い相手と共に生まれ故郷に帰りたいなどと思うものだろうか?  わずかに見えた小さな希望に縋るように、私は柳太に尋ねる。 「ねえ柳太。パパ、ママとケンカして出て行ったときのこと、何か言ってた? 怒ってる、とか、悲しかった、とか、何でもいいの」  自分でもはっきり分かるほど声が震えていた。  怖いのだ。  たとえ間接的にでも、自らの死に関わるきっかけを作ってしまった私を和樹がどう思っているか、それを知るのが怖くてたまらないのだ。  私の質問から少しの間があった。  柳太はいちど天井を見上げてから、ゆっくりと口を開く。 「すごく辛かった、って言ってたよ」
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