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警視庁内の取調室では、女子大生刺殺事件の容疑者である矢神裕樹が机の前に座り、虚ろな表情で前方の壁を見つめていた。
壁際に立つ刑事、石渡がスタンドの光に照らされた矢神の横顔を凝視している。
部屋の隅では、制服の警察官が調書を取るべく待機していた。
先ほどから狭い室内中を苛立たしげに歩き回っていた警部補の吉崎が不意に矢神の前に立つと、机を両手でバンと勢いよく叩き、矢神を睨みつけて凄んだ。
「おい、矢神! そんなハッタリが通用するとでも思ってんのか!」
矢神は吉崎に視線を合わせることなく、壁の一点を見つめたまま口の端だけをあげて笑うとひどく落ち着き払った静かな声で話し出した。
「本当です……突然、あの女を殺せと天から声が降りてきたんです……頭が真っ白になって……気が付いたら彼女を刺していました」
「貴様!」
こみ上げる怒りを抑えられず、吉崎は矢神の胸倉をつかんで締め上げた。
「吉崎さん! やばいっすよ!」
石渡が割って入り、吉崎の手を必死に振り解く。
ボタンが弾け飛び、はだけたシャツの襟元を直そうともせず、矢神は薄ら笑いを浮かべたまま再び椅子に腰を落とした。
そのやり取りを隣室のマジックミラー越しに観察している男がいた。警視庁からの要請で今回の事件の捜査に協力している犯罪心理学者、南方英雄であった。
三島という名の刑事が南方の傍らに立つと「どうでしょう? 容疑者の様子から何かお分かりになりましたか?」と訊ねた。
矢神に視線を据えたまま、縁なしの眼鏡を中指で上げると南方は口を開いた。
「あの男は凶器のナイフを犯行の五日前にインターネットで購入したんですよね?」
「そうですが……」
「被害者の女性との関係は?」
「殺害された女性の家族や同級生の証言によると、矢神とは同じ大学に通う学生ですが、まったく面識はなかったようです。大学構内を歩いていたら突如、背後から矢神に刺されたと……」
「天から声が聞こえて刺したにしては妙ですよね……凶器を五日前から準備し、背後から被害者の急所をひと突き……殺す意図があったとしか思えません……」
「ですが、二人に面識は……」
「一方通行の歪んだ愛だとしたら……?」
「そうか! ストーカーか!」
頷く南方。
「これなら奴の責任能力を問える!」
三島は南方に会釈すると部屋を飛び出していった。
ふと背中に気配を感じ、南方は思わずマジックミラーの向こうに見える矢神へと振り返った。
矢神は物理的に見えるはずのない南方に視線を据え、笑っていた。
南方は驚愕し、目を見開いた。蛇に見入られた蛙のように南方は矢神から視線を逸らすことができなかった。
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