まだ、お別れは言えない

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「達也のことは忘れて、明日からは由美ちゃんの人生を生きてね」  お義母さんが哀しそうに笑う。細くなった目尻からは皴を伝うようにして、涙が零れていった。なんて返していいのかわからず顔を伏せていると、お義母さんは私の手を握った。 「本当に感謝しているの。由美ちゃんのおかげで、達也本当に幸せそうで……。だから、お願い。幸せになってね。泣かないでちょうだいね」  真っすぐに私を見つめるお義母さんの瞳からは、涙が溢れ続けている。握られた手はあたたかくなく、むしろ冷たい。人に泣くなというくせに。なんて自分勝手で、どこまでも優しい人なんだろう。 「……はい、私は大丈夫です。お義母さんも、元気でいてくださいね」 「ありがとう。忌明けはね、それまで喪に服していた遺族が日常生活に戻る意味もあるの。明日からは、また新しく始めるのよ。由美ちゃんの、人……生を」  精一杯の励ましのつもりなのだろうが、最後の方はもう声になっていなかった。もしかしたら、自分自身に言い聞かせているのかもしれない。お義母さんに深くお辞儀をすると、私は滋賀に帰るために電車に乗った。  達也の故郷は兵庫県の淡路市だった。出逢ったばかりの頃に、淡路の玉ねぎをよく自慢していたのが懐かしい。結婚の報告をしにいったばかりなのに、まさか夫になる前に亡くなるなんて、想像もしていなかった。  四十九日が過ぎても、受け入れられない。未だに、今私がいる場所が夢の中であってほしいと願ってしまう。車窓から見える高速で通り抜けていく景色は、達也と私の過ごした日々のようだった。  達也はオープンしたばかりのスポーツジムのインストラクターだった。前からジムに興味があった私は、やっとこの田舎にもジムが来たと浮足立ち、入会の説明を受けに行った。そのとき、対応してくれたのが達也だった。私は達也のことがけっこうタイプだったし、運動している苦しい顔を見られるのは嫌だな、なんてことを考えていたっけ。  仲良くなるまで、そう時間はかからなかった。「お客さんとこんな関係になってるってバレたらやばいかも」なんて苦笑いしながらも、連絡先を渡してくれたときは心の中でガッツポーズをしたものだ。ジムの外で会う達也には、また違った魅力があった。  初めてのデートのときに、なぜ滋賀の店に来たのかも聞いた。もともと兵庫のジムで働いていたけど、会社が新店舗を次々に出すようになったらしい。そのたびに、若くて独身の達也は都合がよく、新店舗立ち上げのヘルプにまわされていたのだ。  達也はそのことを嘆いていたけど、おかげで私たちは出逢えた。  窓の景色が、じわりと歪む。ぶっきらぼうに目を擦ると、窓に反射して映る自分の顔のひどさに気づいた。顔色も、目も、まるでダメダメのダメ。そりゃあ、お義母さんも励ますよね。心配かけて、本当に悪かったな。  そういえば、達也が話していたことがあった。 「いつかは地下鉄成増駅の近くの店に戻って、その周辺に住みたい」  新店舗の立ち上げで入ったときに、すごく住み心地が良かったらしい。都内にもすぐに行けるから利便もいいし、雰囲気もちょうどいいって。  達也には悪いが私は根っからの滋賀の女で、東京には数える程度にしか行ったことがない。地下鉄成増駅と聞いた時も、すごい名前の駅だなと思ったくらいだ。  ……私はあれだけ達也が勧めていたその場所を見たことがない。  スマホを取り出し、「地下鉄成増駅」と検索する。  東京メトロの駅ということと、たくさんの路線があることしかわからなかった。詳しく見る気にもなれず、動画サイトを開く。ないだろうとは思いつつも駅の名前を入れると、一件の動画が目に入った。  駅内をただ歩いているだけの動画。スマホから音が出ているのに気づいて、私は急いでイヤホンをつける。想像していた東京とは違い、人通りはまばらだった。撮影者が歩いている音に混ざって、時折だれかの咳が聴こえた。  誰もマスクをつけていないので、今よりずいぶん前の動画なんだろう。  活舌のいい女性のアナウンスが聞こえ始めると、撮影者の足が止まった。  画面の端には、グレーのスポーツウェアを来た男性がひとり。スタイルがいい男性で、ボックス型のリュックを背負っていた。私はそのリュックに見覚えがあった。  撮影者は電車が来るのを映そうとしたのか、その男性の方にカメラを向けた。  それに合わせて、男性はこちらを見る。私は思わず目を見開いた。  ――達也だ。  知っている達也より少し若いが、間違いない。信じられないけど、これは私が知らない頃の達也だ。画面に目を近づける。想像よりも小さな音で電車が止まった。 「地下鉄成増、地下鉄成増です。一番線は、有楽町線、各駅停車――」  画面のなかの達也が電車に乗り込もうとしているのを見て、私は一時停止をタップした。画面のなかでさえ彼を見送ることが、とてつもなく怖かったからだった。  心臓の音が私以外にも届いているんじゃないかと思うほど、鼓動は激しくなっている。鼻から大きく息を吸って、深呼吸をするけれど、気休めにもならない。怖くても、私はこの動画の続きを見なきゃいけない。なぜか、そんな気がする。  動画を少し巻き戻し、もう一度、彼を見た。  これから来る電車をまっすぐに見つめている達也の背筋は、よく伸びていた。瞳には、明るい未来が宿っているようにも見える。彼への愛しさが募り、私の目頭は熱を持つ。 「地下鉄成増、地下鉄成増です。一番線は、有楽町線、各駅停車、新木場行です」  全く聞き慣れない発車メロディが鳴る。電車に乗り込んだ達也が座席に座った。 「ドアが閉まります。手荷物をお引きください」 「無理なご乗車はおやめください」  煙を吐くような音がして、東京メトロの電車は走り始めた。それと同時に、達也の姿も画面の外へと消えていった。  スマホをスリープにして目を閉じる。閉じた拍子に、中途半端にあたたかい涙が顎にまで伝った。私の知らない達也を、今こんな風に見ることができるなんて、これは奇跡なのだろうか。……もしかしたら、有り触れた出来事なのかもしれない。人波のそのひとつひとつに、こんなことが起こっていてもおかしくないのだから。人の数だけ、出会いと別れがあるのだから。  指先で涙を拭うと、ざらついた感触が残った。  私の知らない達也が愛した街を、私は知らない。  動画のなかで、いったい彼がどこに向かうのかも。  目を開き、車窓を見る。その景色はどんどんと流れていく。  私だけを置き去りにしているようだけど、違う。私は進んでいる。  地下鉄成増駅に行ってみよう。私が知らない彼の欠片を探しに行こう。  まだ、お別れは言えない。だけど、きっと何かが変わる気がする。  電車が止まってしばらくすると、聞き慣れた発車メロディが聴こえた。
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