入れ替わり

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 ああ。今日も頑張った。  大通りから二本ほど中に入った道を歩きながらほっと息を吐き、僕は肩のチカラを抜いた。  たくさんの人の流れから外れ、自分のテリトリーと呼べる地域に足を踏み入れる。この瞬間、僕は朝から背負っていた思い荷物をやっと下ろせ、ほんの少しだけ世界から解放されたような気持ちになるのだ。  大きく息を吐き出し、足を止めた僕はいつものように空を仰ぐ。住宅の明かりで星は見えないけれど、月だけはその存在を僕に見せつけるかのように輝いていた。  夜空に輝くまん丸な月は同期のアイツを彷彿とさせる。前へ前へと出てくるわけでもないのに抜群の存在感。それにいつだって芯がしっかりしていて他人の意見に振り回されない。  最近は一緒の空気を吸っているだけで、僕の自尊心がごりごりと削られていくような気がする。今日だって研修で久しぶりに開放されるかと思っていたのに、欠席した人間の代理でアイツは僕と同じ研修を受けに来た。そのせいで僕は今へとへとに疲れ切っている。  昔はそうじゃなかったのに。  ってあれ?いつからそんなふうになったんだ?  アイツが変わったのは確か……  そんなことを考え始めた僕の耳に「走って!!!」という大きな声が背後から聞こえてきた。   「え?」  何が起こったのかわからないまま、背後を振り返ろうとした僕にその声の主はもう一度叫んだ。 「そう!アナタ!早く!急いで!」  あまりに切迫したその声に追われるように、僕は後ろを振り返ることなく勢いよく走り始めた。    なんだ。  なんなんだ?  一体僕の後ろで何が起こっているんだ?  頭が真っ白になったまま僕は走り続ける。  全速力で走るなんていつぶりの事だろう。だんだんと息が上がり喉がカラカラに乾いて口の中に血の味が滲んでくる頃になって、どうして僕が走らなくてはいけないのかという疑問が頭に浮かび始めた。    何かが僕を襲おうとしていた? もしそうだったとしても、これだけの距離を走ったのだからそろそろ大丈夫だろう。  そう考えた僕は走るスピードを落とすと一度立ち止まり、呼吸を整えながらゆっくりと背後を振り返った。    ?  一体コレはなんなんだ?  僕は自分の目を疑った。口をあんぐりと開け、馬鹿みたいな顔をして突っ立っている僕の目の前にいる黒いモノは、明らかに人では無いくせにどこからどう見てもヒトの形をしているのだ。 「全身タイツ……ってわけでもないよな。ははは……」  思わずそう呟いた後、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。背中に冷たいものが流れ、全身が小刻みに震え出す。目をそらせと僕の中の僕が大声で叫ぶのも虚しく、僕は視線をその黒いぼんやりとした人影から外すことが出来ない。    その時 「走って!!早く!!」  またあの声が聞こえてきた。    その声を聞くや否や、僕は黒い影に背を向け一目散に走り出す。  なんなんだ。一体なんなんだよ。どうして僕が追いかけられないといけないんだ。それにアイツはナニモノなんだよ。    必死に逃げ続ける僕の足に引っかかりを覚えたその瞬間、僕の体は宙を舞った。え? 体制を整える間もなく、僕は気がついた時には無様な格好で地面に這いつくばっていた。 「いってぇ……」  早く起き上がらないと。そう頭は必死に信号を出しているはずなのに、僕の体は地面に吸いついたかのように動かすことが出来ない。  どうして。  なんで。    その時、僕の足元から『走って』と叫んだのと同じ人物の声が聞こえてきた。 「ああ、起き上がらなくても大丈夫ですよ。って、まあ、起き上がることなんて出来ないと思いますけどね」  楽しそうに僕に話しかけるその声は、どこかで聞いたことのある声だった。そしてその声の主を見て、僕は息をのむ。   「……僕?」  何とか起き上がろうとする僕を見下ろしながら『僕』は僕が人を馬鹿にするときによく出す少し高い声で話し始めた。 「だから、起き上がれないって言ってるでしょ。ホント、理解力が低いんだから。そんなんだから影の僕に取って代わられるんだよ」 「え? 影? 取って代わる?」 「ははは。やっぱり無能だね。今まで散々見てきたからわかってたことだけど。でも、これからはキミよりも優秀な僕がこれから活躍する姿を、君は僕の足元で影として這いつくばったまましっかり見てるといいよ」 「何だよそれ。一体どういうことだよ!? 僕の体を返せよ!」  僕は大声でそう叫ぶとがむしゃらに体を動かした。  しかし、精一杯動かしたはずの僕の体は本体となった『僕』の動きを真似ることしかできず、出したはずの大きな声は空気に溶け込むかのように誰かの耳に届く前にどこかへと消えてしまった。   「そうそう。そうやって大人しく『僕』の活躍を『ありがとう』って見てればいいんだよ。感謝しろよ? オマエよりも優秀な僕が変わってやるんだから」  そう僕に話しかける『僕』をただただ見上げていると、足音が向こうの方から近付いてきた。そして「あ、終わった?」と『僕』に向かって軽い調子で声をかける。  その声は紛れもない同期のアイツだった。  でもどうして?  そんなことを考える僕の足元で僕とアイツが楽しそうに話し始めた。   「うん。ちょうど今ね」 「お疲れ様。簡単だったでしょ? 僕も一年くらい前にこの方法を教えてもらってさ。あの日から僕は毎日幸せなんだよ。キミも今日からもう何も我慢しなくていいんだよ。ウジウジした言い訳ばっかりな本体に振り回される必要も、愚鈍なアイツらの行動を見させ続けられることも無いんだ」    一年くらい前?  そういえばアイツが変わったのはちょうどそのくらいの時だったような。   「ああ、夢のようだよ。教えてくれて本当にありがとう。でもさ、本体がまた僕たちに取って代わろうとしてくることって無いの?」 「それは大丈夫。だって僕たちの楽しそうな毎日を見て、今まで見たいなみじめな自分に変わろうなんて考えると思うかい?」 「それもそうだね」  楽しそうに笑う二人を見上げながら、僕は昔のアイツの事を思い出した。  一年前までのアイツは今のアイツみたいに存在感のあるやつじゃなかった。どっちかといえば僕と同じ。いや、僕よりもこの世界に適応しきれていない人間だったじゃないか。  僕は横に並ぶアイツの影に向かって話しかけた。   「なあ、オマエなのか?」  しかし、僕のすぐ横にいるはずのアイツからは何の返事も返ってこなかった。   <終>
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