君と歩く道のり

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 極端に街灯が少ない通勤路を通り、疲れた足を引きずりながら家に帰った。  シャツの袖口から覗く腕時計は、既に二十三時を指している。  結局今週もノー残業デーを作ることができなかった。あれだけ会社で声高に謳っていても、実際はこの通りだ。  おかげで寝不足が続いていて頭痛が酷い。エレベーターを待っているわずかな間でも寝てしまいそうになる。  頭を振ってやり過ごし、小さな箱に乗り込んだ。  ほんの少しの浮遊感と不快感が湧き起こる。黙って飲み下し、揺れが収まるまで耐えた。  自分の住んでいる階で降り、突き当たりにある部屋の前で止まる。  鞄の中から鍵を出そうとして、そういえば今日はズボンのポケットの中に入れたのだったと思い出す。鞄を開閉するという一動作が煩わしく、そのまま手を下ろした先に滑り込ませただけだった。  いつもより重く感じるドアを開け、暗闇の中で革靴を脱いだ。他の靴に当たってしまった気がするが、今は明かりを点けて綺麗に揃えることすら面倒だ。  そんなことより荷物を置きたい。スーツを脱ぎたい。シャワーを浴びる時間すら惜しい。一刻も早くベッドに沈んで寝てしまいたい。  一直線なのに、視線の先にあるリビングがやけに遠かった。  もし彼女と一緒に住んでいたら、もっと違った気持ちを抱いただろうか。  彼女が家にいるのなら、その顔を見るために足早に帰宅したかもしれない。  玄関で「ただいま」と言うと、「おかえり」という言葉と同時に出迎えてくれるかもしれない。  残業したことを笑顔で労いながら、「晩ご飯できてるよ」とこの5mを先導してくれるかもしれない。  都合の良い夢だとわかっていても、実現すればどんなに幸せだろうという期待が消えない。  そのためには、まずプロポーズをして、彼女のご両親に挨拶をして、式の準備をして…と、こなさなければならない難問がいくつもそびえ立っている。  つき合ってそろそろ二年が経つし、生涯を共にするなら彼女しかいないと思っているのに、肝心の一歩が踏み出せない。  何より、自分の覚悟と勇気を生み出すことから始めなければ先に進まない。  それができないから、今日もこうして家を出た時と変わらない部屋へ戻るわけだ。  ため息を一つつき、リビングの扉を開ける。  瞬間、ぱっと視界が明るくなった。 「おかえりなさい!」  眩しさに細めた目は、しかしはっきりと声の主を捉えていた。  ダイニングチェアから立ち上がったのは、シーリングライトのリモコンを手にした彼女。  悪戯が成功したように無邪気に笑う姿を見て、驚きと喜びが駆け巡った。 「どうして……」 「だって今日、誕生日でしょ?」  あ、と中途半端に口を開く。仕事に忙殺されてすっかり忘れていた。  テーブルの上には、季節のフルーツが盛りつけられたバースデーケーキ。きちんとメッセージ入りのプレートまで乗っている。  小さめとはいえホールなんて食べきれないのではないだろうかと思ったが、「お祝いしながら私が食べるからいいの!」と彼女の欲混じりの返答が聞こえてきそうで、思わず頬が緩んだ。  ああ。  きっかけはいつだって転がっていた。  こんなにも、こんなにも、愛しさが溢れてやまない。  乱暴に鞄を置くと、華奢な彼女の肩を抱き寄せた。  人肌に安らぎを覚え、温もりによって身体の強張りが解ける。  この両腕におさまる存在を、ずっと離さずにいたい。  だからどうか、合鍵を渡した時より深くこの想いが伝わるように。 「結婚しよう」
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