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渡さなければ、この靴を。そう思うのに、体は金縛りに遭ったように動かない。
「嫌よ、ママだって嫌。あんな男ともうやっていけない」
女の声も震えていた。どこかで聞いたその声が鼓膜を震わせる。
「やだよ、ママとパパ仲良くしてよ。ぼくパパとママと一緒がいいよ」
女のコートに縋り付くようにして、男の子は激しく泣く。ぱさりと被っていたキャップが落ちた。見覚えのあるその顔に息を呑む。
――小さい頃の俺と、瓜二つだった。いや、あれは、俺だ。
女が溜息をつく気配がする。華奢な肩が小さく揺れていた。
「わかった。リュウがそう言うなら帰ろう。でも、約束して」
酒のせいか子供の泣き声のせいか、頭がぐわんぐわんと揺れる。記憶の蓋が開く。女の声が脳内でこだまする。
俺は、この次に女が言う言葉を知っている。
唐突にそう思った。そう、確か、あの時――
「あなたが将来好きになった女の子には、優しくしてあげるのよ。困っていたら助けてあげて。言われるまで動かないなんて、絶対にだめよ」
一言一句、間違えることなく俺は女と同じ台詞を呟いていた。
ぐらり、と視界が歪む。鈍器で頭を殴られたような衝撃に襲われ、立っていられず座り込んだ。電車のアナウンスが聞こえる。男の子の声が、女の声が――母の声が、遠くなる。
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