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屋敷の扉をくぐっても、アトリは人形のように動かずじっと耐えていた。 海に吹くどこまでも果てしない風を受けて、両手を広げるように形を変える帆のようにしなやかなアトリのこころが、今にも折れてしまいそうな傷んだマストのように固くなっていた。 まるでそれを表すかのように、固く体に力が入っていた。 しかしそれは、ホークの部屋に入った瞬間、ふっと崩れた。 なんとなく流れでそうなっていったが、アトリはホークの部屋のソファで寝起きしている。ヤンバルに来てから過ごした時間だけが流れているこの部屋で、小さな心はせき止めていたものをあふれさせた。 「……っふ、うえっ、あ、アトリ、アトリ、悪いことっ、て、知らなか……ッたのにっ」 「アトリ…」 「ぶった、っり、しなく、ても…っ、アトリ、お、お話してくれたら、ひっ、うっ、わかったのに」 抱き上げていた体を包み込むように、より近くに引き寄せずにはいられなかった。 ホークは自分がどんなつもりでアトリの頬にキスをしたのかもよくわかっていなかった。自分がアトリにキスをしたことさえ、まるで自覚がなかった。 ただただ目の前のアトリの、傷ついた場所を慰めたかった。 たくさんの人が見ていたのに、アトリはアーロンに切りつけられたのだ。暴力という刃物で、自由だった心に、鋭い切り傷ができていた。 じくじくと傷んでいるに違いないその傷口を、ホークはなんとか癒してやりたかった。 ソファの上に抱きしめたまま座ると、アトリの柔らかい手がホークの首に縋りつくように伸びてきた。ホークはどこかそれを、うれしいとさえ感じていたが、自分がそう思っていることにすら無自覚だった。 「アーロンは、お前の身内なのか?」 「ひっ、く、ふ、え、こん、こんやくしゃ、なんだってっ」 「彼が・・・・」 結婚したいとは思えなかったから、運命の人を探しにきた。 アトリがヤンバルに来た目的はそれだった。 未来への希望と、こころのままに、という勇気を胸にきらきらと瞳を輝かせていたアトリ。水面がヤンバルの力強い太陽の光を反射する中、それに負けないほどの存在感でそう言ったアトリ。 あんなにも輝いていたアトリは、今しおしおと泣いている。 あんな男が、このアトリの運命の人であるはずがなかった。 ましてや、アトリの夫になるなど許しがたいとさえ思えた。 「お前がどんな悪いことをしたと言うんだ。オレンジや花を売ることのなにがいけないことだ。履物を履くことのなにがいけないことだ。お前は何も悪くない」 ホークの真剣な声に、ひっくひっくと泣いていたアトリは、不思議そうに顔をあげた。 「だって・・・でも、アーロンがいけないことだって。アーロン、アトリに嘘つかないよ?」 「それはっ」 胸を突くような痛みさえあった。 なんと説明をすればいいというのだろうか。 ホークはアトリの隔てない素直さが、自分に対しても、あまつさえあのアーロンに対しても、分け与えられているということにいら立ちを覚えた。 あまりにも平等で、あまりにも献身的で、そしてアトリだけを救わない。 愚かと呼ぶことはたやすいが、ホークは決してそうは思えなかった。 「……あんなやつのことまで、そんな風に言わなくてもいいだろう」 涙をぬぐってやりながら、ホークはアトリにそう投げかける。 アトリは不思議そうにしていた。 「アーロン、優しいの。いつも、アトリに嘘つかないの。アーロンだけ」 少し涙が落ち着きそうだったアトリは、下をむくとまたあふれかえってきた。 背中に当てた手のひらから、体が震えているのがわかる。 「アーロンに叩かれたの、っ、はじめて」 「アトリ」 うつむくアトリの両頬にホークの厚い手が伸びる。包み込むように頬を支え、おでこをくっつける。 ホークがそうすると、アトリは胸がぎゅうっと痛かった。 ちくちくする。 そう思ったが、アトリはそれがむしろ甘いしびれのようなものに思えた。 いつだって檳榔売りが悪いのだ。 けれどホークは責めなかった。 傷をそっと包んでくれた。 誰もアトリにそんなことをしてくれたことはなかった。 叩かれて熱を持つ頬が、ホークの手のひらの体温で癒されていくかのようだった。大きなホークの手の上から、そっとアトリも手を添える。 合わせられたホークのおでこは暖かかった。 まるで太陽の熱をその身に秘めているかのように、ホークの体はアトリにはとても熱かった。 涙で震えていたのどが落ち着き、肩で息をしていた呼吸が収まるまで、ホークは何も言わずにただずっとそうしてくれた。ときどき堰を切ったようにアトリが泣き始めたり、でもでもと混乱して何かを訴えても、ホークはただそうやってじっと聞いてくれていた。うん、うん、と耳を傾けながら、ホークはアトリの話を否定しなかった。 ホークが何も言わなかったのは、言えなかったのだ。 アーロンは嘘をつかない。 その言葉はアトリにとって彼がどれだけ重要な人物なのかを物語っていた。アトリにはアトリの、彼を好きな理由がある。それはたとえ頬を叩かれたとしても、嘘をつかないという美点がアトリの中で変わったわけではない。 アーロンを悪いやつだと断罪することは、きっとアトリには納得できない。 そんなアトリをどう慰めるべきか、ホークにはわからなかった。 ただ、アトリを一人で泣かせたくなかった。 「運命の人って、どうしてアーロンじゃないんだろう」 アトリはふとそう漏らした。 真っ赤に腫れてしまった大きな目に手ぬぐいを当てられながら、ソファに寝かせられたアトリはそうつぶやいた。ソファを背もたれにしてアトリの顔を覗き込んでいたホークは、おや、と眉を挙げた。 「だってね、アーロンが運命の人だったら、アーロンと結婚するってうれしかったと思うの。でも、アトリ、全然うれしくなかったの」 「そうか」 「あ!」 はっとアトリは何かに気がついて、そしてまたしゅんとしょげかえった。 「どうした?」 「ストークに言われたの。運命の人って、どんな人なのか知らないと、探せないよって。素敵なひとなんだと思うんだけど、どんな人が素敵なのかもアトリあんまり考えたことなかったの」 しょげていると、アトリの頭をホークがぽんぽんと撫でる。 ソファに肩ひじをつきながら、もう片方の腕が思わず伸びてしまった。 「どんな人が素敵な人なの?」 涙はもう引っ込んだようで、興奮がぶり返してくるような様子はなかった。ホークはそのことに安心した。そしてアトリの輝く瞳を見つめながら、素敵な人の答えを考える。 「そうだな・・・」 なぜか脳裏に海が浮かぶ。 白く速い帆船に、檳榔を抱えたアトリ。 夕日に照らされたヤンバルを見て、ぼうっと美しさに見とれていたアトリ。 屈託のない笑顔と元気。そして怖いぐらい素直な気性。 今まで出会った誰とも違う、すがすがしい気配すら感じる。そしてどこかくすぐったい。 ホークはまさか、と思った。 自分が? アトリのような、なにも知らない少年と? 素直に受け止められない自分がいた。 まだこの気持ちを何と呼ぶのかはわからない。 ただ、アーロンにアトリが粗末に扱われることがあれば、それは許せないのだという確信はあった。 きっとアトリはヤンバルを好きになる。初めてあったときから、はるか空の彼方から吹く風そのもののようなこのアトリには、ヤンバルが、そして自分が必要なのではないか。そんな思いがしてならなかった。アーロンという小さな世界を見つめているアトリに、もっと広い世界があるのだと、アトリ自身に見つけてほしかった。 アトリ檳榔売りなのに、オレンジを売ってもいいの? お金をもらってもいいの? そううれしそうに言う姿に、何かが広がっていく予感さえする。 アトリが自分の翼を広げるまで。 その翼はきっと風をつかむはずだ。 そんな思いを何と呼ぶのだろうか。 だがアトリは運命を探しているのだ。 運命とはいったい何なのだろうか。 これが運命なのだと、はっきりとわかるなど、この一生のうちにあるものなのだろうか。 「何が素敵なのかは人によって違うさ。アトリにはアトリの素敵なものが見えるはずだ」 「そうなの?」 「そうとも」 「じゃあ、ホークにもホークの素敵があるの?」 「うん、あるさ」 「ホークの素敵ってなに?」 「海だよ、アトリ。この海の波と風と、道行く者を見守る星たち。それを感じるたびに、何かに祈りたくなる。おれはそれを素敵だと思う。素敵な人も、そういう人だといいな」 「・・・・・・うん」 アトリはどこかぼうっとホークを見つめた。 「アトリもね、そう思うな…」 膝を抱え込みながらそうつぶやいた。 泣きはらしたせいだったが、アトリのそのとろけるようなまなざしに、ホークの悪い気持ちが動いてしまう。 「アトリ…」 そっと頬を撫でて、顔を近づける。 おでこをくっつけるのかと思ったアトリは、自分から進んで瞳を閉じた。 形の良い美しい額に目を奪われながらも、ホークの指は頬から顎へとすっと移る。 小さな蕾のような可愛らしい唇に、海の潮風に荒れた唇がかぶさる。 軽く吸い上げられるようにされ、アトリはあれ、と目を開く。ホークの金色の瞳がアトリを覗き込んで少し微笑んでいた。 ちゅ、と音を立てて離れていった唇。 互いの柔らかな部分の触れ合いは、アトリから全身の力をふっと抜かせてしまう。 おでこよりも頬よりも、なによりもホークの熱がアトリを慰めた瞬間だった。 アトリは自分が許されていると、心から感じた。 「何度でもこうしたい、と思う人と結婚したほうがいい」 それは別の意味で、ちくとアトリの心臓に痛みを与えた。 ホークではないということなのだろうか。 自分が感じたようには、ホークは感じていないのだろうか。 アーロンには思ったこともなかったな。 初めての気持ちがアトリの中で翼を広げはじめたのだった。 「おやすみ、アトリ」 額にキスが落とされる。 ホークはあまりの名残惜しさに、唇にまた落としたい気持ちがあったが、何とかこらえるのに精いっぱいだった。 おでこじゃなくて、さっきのをもう一回したいとアトリは思ったが、もしホークがそう思っていなかったらと思うと言えなかった。 世界のどこかから、優しい風が吹いていた。 二人の胸の戸をそっと叩くために。
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