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16
ふわふわしてる
あったかくて、きもちいい
ずっとこうしてたいな。
ずっとアトリのこと、ぎゅってしてほしいな。
うとうとと心地よい暖かさにまどろみながら、アトリはふとそんなことを夢の中で考えていた。そして心地よい暖かさが流れてくる方へ体をよじり、体であくびをするように伸びたあと、すりすりと身を寄せる。
ぎゅっとしてね。
アトリのこと、やさしくさわってね
そう言葉にしなくても、そのぬくもりはアトリをぎゅっとした後、優しく頭を撫でてくれた。
いますっごくしあわせだな。
おきるのがもったいないな。
ちゅっ、と額にキスが落とされる。そのやさしい唇が離れていくのが名残惜しくて、アトリはゆっくりと目をひらいた。
「・・・・・・おはよう、アトリ」
寝台の中で裸で抱き合いながら、ホークが優しく微笑む。アトリはぼんやりとホークを見上げた後、もぞもぞと両手をホークにさしだした。
くものなかにいるみたい
ふわふわ
ふわふわ
あったかい
ほーくにもわけてあげたいな
「どうした?」
「あとりのことぎゅってして」
ホークは息を飲んだが、アトリにはわからなかった。
「ああ」
抱き寄せると、アトリはしっかりと首の後ろにまで手をまわしてきた。
「ほーくのことは、あとりがぎゅってしてあげるね」
とろとろと再び眠りに落ちながらアトリはそうつぶやく。
「アトリ?やはり疲れているんだな、無理もない」
いとおしそうな声を聴きながら、アトリはシーツの海の中に意識を沈ませていった。
*********************
あのね、ホーク
ホントはね、知ってるんだ
アトリだけ、ひとりぼっちでお家に住まなきゃいけないの。
アトリだけ、学校には行けないの。
だから、みんなが島の学校に行ってるときに、アトリずっと船の練習してたの。だから誰よりも船が上手になったの。でもちょっとだけ、アトリもお勉強したかったな。
アトリだけ、お祝いの時に自分の席がないの。
お祝いの時はずっと檳榔を売らないといけないから、ごちそうも食べちゃダメなの。ほかにもお祝いの時に働いてる人はいるけど、その人たちも自分のお祝いの時は座ってていいの。
でもね、アトリには自分のお祝いがないの。
だから、アトリずっと立ってなくちゃいけないんだよ。
アトリは貝殻で買い物するの。
でもね、知ってるの。
みんながその辺で貝殻拾ってるの、アトリ知ってる。
アトリが買い物するとき、貝殻を使うの。
でもたくさん集めても売ってくれないときもあるし、一枚だけで売ってくれるときもあるの。
アトリの貝殻だけ、みんな貰ってもその辺に捨てちゃうの。
だってね、どこにでも落ちてるから、持っておくことなんかないの。
貝殻を集めてもっておかなくちゃいけないの、アトリだけなの。
みんな捨てちゃうのに。
アトリだけ、檳榔売り以外しちゃいけないの。
昨日も、今日も、明日もずっと檳榔売り。
檳榔売りの仕事は好きだよ。
でもね、ときどきほかのことにもわくわくするの。
アトリ、みんなが喜んでくれるのが好き。
檳榔を噛むとき、怒ってる人もちょっとだけうれしいの。アトリ、そういうのがとってもすき。だからね、お花とかお腹のお薬とか、売ってみたかったの。でも、駄目なんだって。
アトリだけ、駄目なんだって。
アトリね、知ってるの。
アーロンだけが嘘つかないって知ってるの。
小さいときからね、おばあちゃんも島長たちもみんなこういうの。
『アトリが檳榔売りをしてたら、いつかお父さんとお母さんに会えるよ』って
『二人はずっと檳榔売りの仕事で働きに出てるんだよ』って
でもね、アトリ島のあちこちに行ったし、隣の島にもその隣の島にも全部行ったの。
でもお父さんもお母さんもいなかったよ。
アーロンだけがね、こんな風に言ってたの。
『お前は檳榔売りなんだから、人探しなんかするものじゃない。絶対にもうそんなこと止めるんだ。お前にとっていいことなんて一つもない。檳榔売りのくせに、そんなことをするな』
アトリ、そのときはうんって嘘ついたの。でもね、あのね、やっぱりどこ探しても二人ともいなかったし、お墓もなかったし、もう名前も知れないし、二人のことはちょっともアトリにはわからないの。きっとそうなの。
だっておばあちゃんがなくなった時、土の中にうめただけだったの。
おばあちゃんだけお墓もなくて、寂しくて静かなところに埋めただけなの。
お父さんとお母さんもそんなふうに土の下なのかな。
だったらアトリにはもう、ごあいさつもできないの。
だからね、あのね、アーロンは嘘ついてなかったなって。
アトリにいいことなんて、ひとつもなかったの。
みんなそのうち会えるよって言ってたの。だからずっと檳榔売りをするんだよって。
アーロンだけが、ちがうって言ってた。
アーロンがいつも正しいなって思ってたの。
むかしね、うんとちいさいときね、アトリお花を売る人になりたかったの。
マゲイちゃんはなりたいものになれるよって、言ってくれてたの。
そしたらアーロンがすっごくぷんぷんして、おこりんぼうだったな。
『マゲイはすぐ嘘をつく!アトリは・・・・・っ、檳榔売りをして掟通りに生きているのが、悲しいことも、痛いことも、関係ないままなんだ!アトリは檳榔売りをしてるのが、一番いいんだ!』
マゲイちゃん、すっごく怒ってた。
『あたし嘘なんかついてないわ!アトリ!アトリはどう思うの!こんな島、あたしと一緒に出ていこう!二度と戻ってこなかったらいいんだから!』
アトリね、たぶんマゲイちゃんのこと悲しませたの。
『えっと、えっと、アトリ、おばあちゃんと一緒にいたいなって』
そしたらマゲイちゃん泣いちゃったの
『アトリのバカ!あんたなんて嫌いよ!世界で一番嫌い!自分のために生きられない人が一番ひきょうなのよ!おかしいと思わないの!おかしいって言おうって思わないの!?もう絶対、口なんか利かないから!檳榔売りなんか!あんたたちなんか、大っ嫌い!』
ちょっともよくわからなかったけど、マゲイちゃんは本当に口をきいてくれなかったな。
アーロンの言ってたね、悲しいことも、痛いことも関係ないままなんだって、本当だなっておもったよ。ヤンバルに来てから、胸がチクチクするの。
ヤンバルの人はアトリから貝殻でお買い物したりしないね。
お金いらないのって言ったら、みんな食べ物と交換してくれた。
その辺の貝殻じゃなかった。
みんなが大事にしているものと、交換してくれたの。
教会でね、おばあちゃんは天使さまだよって教えてもらったの。
檳榔売りが天使さまなんだって。
皆に大事にされてる人なんだって。
檳榔売り以外のことをしても、だれもダメって言わないってホークが言ってたでしょう。
嘘かなってちょっと思ってたの。
でもね、本当にだれもそんな事いわなかったな。
アトリね、檳榔売りってどこにでもいると思ってたの。
だからヤンバルにいないって知ったとき、なんだか胸にぽっかり穴が開いたみたいだったな。
冷たい風が通り抜けるの。
みんなそうしてるんじゃなかったの?
世界中どこにいっても、檳榔売りは檳榔売りだって、アーロン以外みんな言ってたのに。
そうなんだって、思ったらずっとチクチクするの。
知らなかったら、こんな風にチクチクしたりしなかった。
痛くなんてならなかった。
この痛いのが悲しいなんて、知らなかった。
掟を破ったら、こんなに悲しいなんて知らなかった。
運命の人を探すのが、こんなにじくじくするなんて知らなかった。
どうしておばあちゃんは、アトリにそんなことをしなさいって言ったのかなあ。
平らな土の下のおばあちゃん。
そう思ったらね、アトリ、ぎゅってしてほしくなったの。
アトリも平らな土の下になるのかな。
だれもアトリがどこでお休みしてるか、覚えてくれないのかな。
アトリを探してくれる人がいても、どこにアトリがいるのかわからないのかな。
だからね、アトリね、本当は知ってるの。
アトリだけ。
アトリたちだけ。
檳榔売りだけなの。
知ってる。
みんながアトリに嘘ついてるの、本当はずっとずっと前から知ってるの。
マゲイちゃんも。
アーロンも。
だから、アトリの友達はずっとずっと悲しいの。
「だから、だからアトリ今は帰ったりしないよ、アーロン」
アトリは瞳いっぱいに涙をためながら、そう宣言した。
教会の聖堂には4人の沈黙が落ちた。
つたない言葉で語り終えたアトリは、はーっと大きく息を吐いた。緊張で固くなっていた体がすこしだけ緩む。
ずっとアトリの手を握っていたホークが、手をひいてアトリを椅子に座らせ、目じりの涙をぬぐう。
「頑張ったな、アトリ」
向かい合って聞いていたアーロンは、じっと床を見つめて聞いていた。そしてみんなが嘘をついているのを、本当は知っているとアトリが話すと、指を震わせて顔を覆った。
「俺がお前に…余計なことを言わなければよかった」
しぼりだすような声に、ストークが優しい声を掛ける。
「そんなことはない。アトリの話を聞いていたろう?アトリは賢いんだ。遅かれ早かれ、気が付いていた。君の言葉が、アトリにそれを受け止める場所を作ってやっていたんだ。人には誰しも、そういう人が必要だ。ご両親もいない、学校にも行けなかったアトリには、君の存在がとても大切だったんだ」
「・・・・ストーク」
ストークの言葉を聞いて、アーロンは少しだけ顔を上げた。
アトリはたまらなくなって、にぎっていたホークの手を迷いながら離した。たたたっとアーロンのもとに駆け寄ると、ひしっとだきついた。
「アトリ」
「あのね、あのね、みんなのこと、アトリ大好きなの。でもね、でもね、ちくちくするの。みんなどうしてアトリに嘘つくの?アトリね、なんだか怖くて聞けないの。だからね、戻りたくないの。ごめんなさい、アーロン。マゲイちゃんも、ごめんなさい」
アトリの小さな体を、アーロンがぎゅっと抱きしめた。
「・・・・・2度と戻れないんだぞ」
「うん」
「絶対にもどってきたらいけないんだ」
「うん」
「マゲイにはよく言っておく」
「うん」
「ちゃんとホークのいうことを聞くんだぞ」
「がんばる」
「思い付きでなんでもやったらだめだぞ」
「がんばる」
「なにか思いついても、絶対に誰かに相談するんだぞ」
「がんばる」
「ほんとうに頑張るんだぞ」
「がんばる」
二人の声は涙を含んでいた。
「・・・・アトリ。すまなかったっ」
「ううん。アトリもごめんなさい。ごめんなさい、アーロン。アトリ、アーロンとマゲイちゃんが大好き。二人がアトリのこといつも大事にしてくれてたの、アトリ知ってるよ」
「アトリ・・・っ」
アトリよりもアーロンのほうが、もうだめだった。
アトリをここに残していけば、アトリは自分が奴隷だということも、罪人の子だということも、逃げたことがわかれば殺されてしまうことも、何もかも知らなくて済む。
小さな体を抱きしめながら、アーロンはその未来に託したのだった。
***********************
「アトリ!」
アーロンがヤンバルを経つ当日、アトリは久しぶりに西施にであった。
ヤンバルを見渡せる丘にある公園でたまたま出くわしたのだった。
「あ!西施!あのね、ちょっと前のあのシロップね、アトリ怒ってるよう!」
「え?だって仲良くなれたでしょ?」
西施はあっけらかんと答えた。
アトリはぷんすことさらに怒った。
「そうだけど!でもちがうでしょ?!聞いてなかったもん」
「言ったらよくないでしょ。知らないからこそいいのよ」
「そういうの、アトリよくないと思うな!」
「ごめん、ごめんって」
あはは、と西施は金髪を太陽の光になびかせて笑う。
「そうそう、アトリ。私いい知らせがあるの」
「なあに?」
アトリはその屈託のない笑顔につられて笑おうとしたが、はっとして顔がこわばった。
西施は不思議そうな顔をしたが、アトリには今まで感じたことのない、生ぬるい風がかすかに吹いているのがわかった。湿っていて、そして何かのにおいさえ運んでいる。
「ヤンバルに島の人たちが向かっているのよ」
「・・・・え?」
「アトリのこと取り返しに行きたいみたいだったから、船を貸したの」
アトリには理解できなかった。
困惑の表情で見上げるが、西施は相変わらずさわやかに微笑んでいる。
西施は感じないのだろうか。
この土とも潮とも違うものを運んでいる、不快なぬるい風を。
行くべきところも、帰るべきところもない、さまよい続けているこの風を。
「大丈夫よ。私の貸した船も武器も、アトリが島に帰らなくて済むように必ず返してもらうから。アトリ、あの島の奴隷でしょ?逃げてきたんでしょ?守ってあげるわ」
「ど・・・あ、え?」
「ヤンバルにね、阿片の商売を認めてもらうの。そうすれば、私はあの島の人たちから船も武器も取り上げてあげる。だからね、アトリはずっと帰らなくていいのよ!」
西施の笑顔は美しかった。
無邪気で、善良で。
運んできた生ぬるい風の名を、アトリはまだ知らなかった。
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