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ふわふわしてる あったかくて、きもちいい ずっとこうしてたいな。 ずっとアトリのこと、ぎゅってしてほしいな。 うとうとと心地よい暖かさにまどろみながら、アトリはふとそんなことを夢の中で考えていた。そして心地よい暖かさが流れてくる方へ体をよじり、体であくびをするように伸びたあと、すりすりと身を寄せる。 ぎゅっとしてね。 アトリのこと、やさしくさわってね そう言葉にしなくても、そのぬくもりはアトリをぎゅっとした後、優しく頭を撫でてくれた。 いますっごくしあわせだな。 おきるのがもったいないな。 ちゅっ、と額にキスが落とされる。そのやさしい唇が離れていくのが名残惜しくて、アトリはゆっくりと目をひらいた。 「・・・・・・おはよう、アトリ」 寝台の中で裸で抱き合いながら、ホークが優しく微笑む。アトリはぼんやりとホークを見上げた後、もぞもぞと両手をホークにさしだした。 くものなかにいるみたい ふわふわ ふわふわ あったかい ほーくにもわけてあげたいな 「どうした?」 「あとりのことぎゅってして」 ホークは息を飲んだが、アトリにはわからなかった。 「ああ」 抱き寄せると、アトリはしっかりと首の後ろにまで手をまわしてきた。 「ほーくのことは、あとりがぎゅってしてあげるね」 とろとろと再び眠りに落ちながらアトリはそうつぶやく。 「アトリ?やはり疲れているんだな、無理もない」 いとおしそうな声を聴きながら、アトリはシーツの海の中に意識を沈ませていった。 ********************* あのね、ホーク ホントはね、知ってるんだ アトリだけ、ひとりぼっちでお家に住まなきゃいけないの。 アトリだけ、学校には行けないの。 だから、みんなが島の学校に行ってるときに、アトリずっと船の練習してたの。だから誰よりも船が上手になったの。でもちょっとだけ、アトリもお勉強したかったな。 アトリだけ、お祝いの時に自分の席がないの。 お祝いの時はずっと檳榔を売らないといけないから、ごちそうも食べちゃダメなの。ほかにもお祝いの時に働いてる人はいるけど、その人たちも自分のお祝いの時は座ってていいの。 でもね、アトリには自分のお祝いがないの。 だから、アトリずっと立ってなくちゃいけないんだよ。 アトリは貝殻で買い物するの。 でもね、知ってるの。 みんながその辺で貝殻拾ってるの、アトリ知ってる。 アトリが買い物するとき、貝殻を使うの。 でもたくさん集めても売ってくれないときもあるし、一枚だけで売ってくれるときもあるの。 アトリの貝殻だけ、みんな貰ってもその辺に捨てちゃうの。 だってね、どこにでも落ちてるから、持っておくことなんかないの。 貝殻を集めてもっておかなくちゃいけないの、アトリだけなの。 みんな捨てちゃうのに。 アトリだけ、檳榔売り以外しちゃいけないの。 昨日も、今日も、明日もずっと檳榔売り。 檳榔売りの仕事は好きだよ。 でもね、ときどきほかのことにもわくわくするの。 アトリ、みんなが喜んでくれるのが好き。 檳榔を噛むとき、怒ってる人もちょっとだけうれしいの。アトリ、そういうのがとってもすき。だからね、お花とかお腹のお薬とか、売ってみたかったの。でも、駄目なんだって。 アトリだけ、駄目なんだって。 アトリね、知ってるの。 アーロンだけが嘘つかないって知ってるの。 小さいときからね、おばあちゃんも島長たちもみんなこういうの。 『アトリが檳榔売りをしてたら、いつかお父さんとお母さんに会えるよ』って 『二人はずっと檳榔売りの仕事で働きに出てるんだよ』って でもね、アトリ島のあちこちに行ったし、隣の島にもその隣の島にも全部行ったの。 でもお父さんもお母さんもいなかったよ。 アーロンだけがね、こんな風に言ってたの。 『お前は檳榔売りなんだから、人探しなんかするものじゃない。絶対にもうそんなこと止めるんだ。お前にとっていいことなんて一つもない。檳榔売りのくせに、そんなことをするな』 アトリ、そのときはうんって嘘ついたの。でもね、あのね、やっぱりどこ探しても二人ともいなかったし、お墓もなかったし、もう名前も知れないし、二人のことはちょっともアトリにはわからないの。きっとそうなの。 だっておばあちゃんがなくなった時、土の中にうめただけだったの。 おばあちゃんだけお墓もなくて、寂しくて静かなところに埋めただけなの。 お父さんとお母さんもそんなふうに土の下なのかな。 だったらアトリにはもう、ごあいさつもできないの。 だからね、あのね、アーロンは嘘ついてなかったなって。 アトリにいいことなんて、ひとつもなかったの。 みんなそのうち会えるよって言ってたの。だからずっと檳榔売りをするんだよって。 アーロンだけが、ちがうって言ってた。 アーロンがいつも正しいなって思ってたの。 むかしね、うんとちいさいときね、アトリお花を売る人になりたかったの。 マゲイちゃんはなりたいものになれるよって、言ってくれてたの。 そしたらアーロンがすっごくぷんぷんして、おこりんぼうだったな。 『マゲイはすぐ嘘をつく!アトリは・・・・・っ、檳榔売りをして掟通りに生きているのが、悲しいことも、痛いことも、関係ないままなんだ!アトリは檳榔売りをしてるのが、一番いいんだ!』 マゲイちゃん、すっごく怒ってた。 『あたし嘘なんかついてないわ!アトリ!アトリはどう思うの!こんな島、あたしと一緒に出ていこう!二度と戻ってこなかったらいいんだから!』 アトリね、たぶんマゲイちゃんのこと悲しませたの。 『えっと、えっと、アトリ、おばあちゃんと一緒にいたいなって』 そしたらマゲイちゃん泣いちゃったの 『アトリのバカ!あんたなんて嫌いよ!世界で一番嫌い!自分のために生きられない人が一番ひきょうなのよ!おかしいと思わないの!おかしいって言おうって思わないの!?もう絶対、口なんか利かないから!檳榔売りなんか!あんたたちなんか、大っ嫌い!』 ちょっともよくわからなかったけど、マゲイちゃんは本当に口をきいてくれなかったな。 アーロンの言ってたね、悲しいことも、痛いことも関係ないままなんだって、本当だなっておもったよ。ヤンバルに来てから、胸がチクチクするの。 ヤンバルの人はアトリから貝殻でお買い物したりしないね。 お金いらないのって言ったら、みんな食べ物と交換してくれた。 その辺の貝殻じゃなかった。 みんなが大事にしているものと、交換してくれたの。 教会でね、おばあちゃんは天使さまだよって教えてもらったの。 檳榔売りが天使さまなんだって。 皆に大事にされてる人なんだって。 檳榔売り以外のことをしても、だれもダメって言わないってホークが言ってたでしょう。 嘘かなってちょっと思ってたの。 でもね、本当にだれもそんな事いわなかったな。 アトリね、檳榔売りってどこにでもいると思ってたの。 だからヤンバルにいないって知ったとき、なんだか胸にぽっかり穴が開いたみたいだったな。 冷たい風が通り抜けるの。 みんなそうしてるんじゃなかったの? 世界中どこにいっても、檳榔売りは檳榔売りだって、アーロン以外みんな言ってたのに。 そうなんだって、思ったらずっとチクチクするの。 知らなかったら、こんな風にチクチクしたりしなかった。 痛くなんてならなかった。 この痛いのが悲しいなんて、知らなかった。 掟を破ったら、こんなに悲しいなんて知らなかった。 運命の人を探すのが、こんなにじくじくするなんて知らなかった。 どうしておばあちゃんは、アトリにそんなことをしなさいって言ったのかなあ。 平らな土の下のおばあちゃん。 そう思ったらね、アトリ、ぎゅってしてほしくなったの。 アトリも平らな土の下になるのかな。 だれもアトリがどこでお休みしてるか、覚えてくれないのかな。 アトリを探してくれる人がいても、どこにアトリがいるのかわからないのかな。 だからね、アトリね、本当は知ってるの。 アトリだけ。 アトリたちだけ。 檳榔売りだけなの。 知ってる。 みんながアトリに嘘ついてるの、本当はずっとずっと前から知ってるの。 マゲイちゃんも。 アーロンも。 だから、アトリの友達はずっとずっと悲しいの。 「だから、だからアトリ今は帰ったりしないよ、アーロン」 アトリは瞳いっぱいに涙をためながら、そう宣言した。 教会の聖堂には4人の沈黙が落ちた。 つたない言葉で語り終えたアトリは、はーっと大きく息を吐いた。緊張で固くなっていた体がすこしだけ緩む。 ずっとアトリの手を握っていたホークが、手をひいてアトリを椅子に座らせ、目じりの涙をぬぐう。 「頑張ったな、アトリ」 向かい合って聞いていたアーロンは、じっと床を見つめて聞いていた。そしてみんなが嘘をついているのを、本当は知っているとアトリが話すと、指を震わせて顔を覆った。 「俺がお前に…余計なことを言わなければよかった」 しぼりだすような声に、ストークが優しい声を掛ける。 「そんなことはない。アトリの話を聞いていたろう?アトリは賢いんだ。遅かれ早かれ、気が付いていた。君の言葉が、アトリにそれを受け止める場所を作ってやっていたんだ。人には誰しも、そういう人が必要だ。ご両親もいない、学校にも行けなかったアトリには、君の存在がとても大切だったんだ」 「・・・・ストーク」 ストークの言葉を聞いて、アーロンは少しだけ顔を上げた。 アトリはたまらなくなって、にぎっていたホークの手を迷いながら離した。たたたっとアーロンのもとに駆け寄ると、ひしっとだきついた。 「アトリ」 「あのね、あのね、みんなのこと、アトリ大好きなの。でもね、でもね、ちくちくするの。みんなどうしてアトリに嘘つくの?アトリね、なんだか怖くて聞けないの。だからね、戻りたくないの。ごめんなさい、アーロン。マゲイちゃんも、ごめんなさい」 アトリの小さな体を、アーロンがぎゅっと抱きしめた。 「・・・・・2度と戻れないんだぞ」 「うん」 「絶対にもどってきたらいけないんだ」 「うん」 「マゲイにはよく言っておく」 「うん」 「ちゃんとホークのいうことを聞くんだぞ」 「がんばる」 「思い付きでなんでもやったらだめだぞ」 「がんばる」 「なにか思いついても、絶対に誰かに相談するんだぞ」 「がんばる」 「ほんとうに頑張るんだぞ」 「がんばる」 二人の声は涙を含んでいた。 「・・・・アトリ。すまなかったっ」 「ううん。アトリもごめんなさい。ごめんなさい、アーロン。アトリ、アーロンとマゲイちゃんが大好き。二人がアトリのこといつも大事にしてくれてたの、アトリ知ってるよ」 「アトリ・・・っ」 アトリよりもアーロンのほうが、もうだめだった。 アトリをここに残していけば、アトリは自分が奴隷だということも、罪人の子だということも、逃げたことがわかれば殺されてしまうことも、何もかも知らなくて済む。 小さな体を抱きしめながら、アーロンはその未来に託したのだった。 *********************** 「アトリ!」 アーロンがヤンバルを経つ当日、アトリは久しぶりに西施にであった。 ヤンバルを見渡せる丘にある公園でたまたま出くわしたのだった。 「あ!西施!あのね、ちょっと前のあのシロップね、アトリ怒ってるよう!」 「え?だって仲良くなれたでしょ?」 西施はあっけらかんと答えた。 アトリはぷんすことさらに怒った。 「そうだけど!でもちがうでしょ?!聞いてなかったもん」 「言ったらよくないでしょ。知らないからこそいいのよ」 「そういうの、アトリよくないと思うな!」 「ごめん、ごめんって」 あはは、と西施は金髪を太陽の光になびかせて笑う。 「そうそう、アトリ。私いい知らせがあるの」 「なあに?」 アトリはその屈託のない笑顔につられて笑おうとしたが、はっとして顔がこわばった。 西施は不思議そうな顔をしたが、アトリには今まで感じたことのない、生ぬるい風がかすかに吹いているのがわかった。湿っていて、そして何かのにおいさえ運んでいる。 「ヤンバルに島の人たちが向かっているのよ」 「・・・・え?」 「アトリのこと取り返しに行きたいみたいだったから、船を貸したの」 アトリには理解できなかった。 困惑の表情で見上げるが、西施は相変わらずさわやかに微笑んでいる。 西施は感じないのだろうか。 この土とも潮とも違うものを運んでいる、不快なぬるい風を。 行くべきところも、帰るべきところもない、さまよい続けているこの風を。 「大丈夫よ。私の貸した船も武器も、アトリが島に帰らなくて済むように必ず返してもらうから。アトリ、あの島の奴隷でしょ?逃げてきたんでしょ?守ってあげるわ」 「ど・・・あ、え?」 「ヤンバルにね、阿片の商売を認めてもらうの。そうすれば、私はあの島の人たちから船も武器も取り上げてあげる。だからね、アトリはずっと帰らなくていいのよ!」 西施の笑顔は美しかった。 無邪気で、善良で。 運んできた生ぬるい風の名を、アトリはまだ知らなかった。
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