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大海原に白い波の線を引くように、アトリの小舟がハヤブサのような速さで流れていく。 浅い海の島民は、水平線に突如現れたその船影を理解できなかった。 彼らが今まで目にしてきた何よりも、その船は早かったのだ。 白い帆は翼なのではないのかと思えるほど、鳥が海面ぎりぎりを飛んでいるかのような速さで大きくなるその形。やがてそれが一艘の船であるとわかると、驚きを隠せなかった。 そしてその小船を操る檳榔売りの姿を見つけると同時に、向こうもこちらに気が付いたようだった。 軽い体で船の上を飛び回り、一瞬で帆をたたんだ。 かと思えばまるで馬の手綱を引くかのように綱を操り、ひと蹴りで船の後方に体重をかけると、船首を浮かび上がらせ、まるで立ちふさがるかのように船団の前に船を横づけた。 はあ、はあ、と息が上がっているアトリ。 隣の島の島民たちが、見たこともないくらいに武装しているのをみて、西施の言葉を思い出す。 「お前がアトリか」 「・・・・うん」 「お前は島から逃げたと聞いたが」 首長は船首に立ちふさがって、槍を少しだけ鳴らした。 「逃げてないもん」 「お前ひとりで逃げられるはずもない。檳榔売りごときが。貴様はわかっているのか、檳榔売りは奴隷だ、親の犯した罪を償うためだけに生かされた人生だ。そんな貴様に操舵の知識を教えることさえ汚らわしいことだ」 「・・・・アトリ、教えてもらってないもん。だれも、アトリに何も教えてくれなかったもん」 「お前の島の住民は我々を裏切った。お前に知識を与え、島から逃げるよう教えた。お前にそうさせた者は裏切り者だし、そいつを野放しにしたお前の島の住民は裏切りものだ」 アトリは震えた。 喉の奥が、声の始まりが、胸が、指先が。 「誰も教えてくれなかったもん!アトリ、アトリの船だって、学校に行っちゃいけなかったから、皆がお勉強終わるまで船で遊んでただけだもん!おばあちゃんだって、心のままに生きなさいって言ってくれただけだもん!」 頭がごちゃごちゃしていた。 アトリは島が好きだ。島の住民も好きだ。育ててくれた祖母も好きだ。 でも。 どうして学校にいかせてくれないの。 どうして島から出ちゃいけないんだって教えてくれなかったの。 どうしてアトリが悲しまないように、何もしらないように育ててくれたの。 どうして運命を探すように勇気づけてくれたの。 どうして渡り鳥の名前をくれたの。 どうしてアーロンがぼくを妻にすることを許してくれたの。 どうしてみんな本気で追いかけてこなかったの。 ヤンバルでホークがくれたような、自由も平等もなかった。 お前には与えられないのだと、生活のすべてが物語っていた。 でも。 でも。 アトリにはこみあげてくるものがあった。 自分たちを守ってはくれないヤンバルの土地に、『お前はまだ私たちの友人か』と問いかける人を知っているから。アトリは島の人に、『まだアトリの友達でいてくれるの』と問いかけてみたかった。 ヤンバルが自分に何をしてくれるのかなんて、ホークには関係ない。 アトリも、島の人が自分に何をしてくれるのかなんて関係なかった。 愛しているから。 愛したいから。 そうしたいから。 心のままに生きたいから。 少なくとも目の前の船団から向けられる憎悪は、まったく無縁だった。 それが愛ではないとは、アトリには思えなかった。 「アトリ、戻ってきたということは、罪を償う気持ちがあるんだな」 「・・・・誰のことも傷つけたりしない?島のみんなのことも、ヤンバルのことも」 首長は答えなかった。 「アトリが勝手に島を出たの!そうしてみたかっただけなの!皆関係ないの!」 「縛り上げろ」 船員たちにそう言いつける。 「やだ・・・!」 屈強な男たちがアトリの小舟に飛び乗ってくる。船はおもちゃのように揺れてしぶきを上げる。 「やだよッ・・・!アトリ、やだだよ!」 ヤシの皮を縒って作られた縄が船に掛けられる。まるで鳥を捕まえるときのように、船もアトリも捕らえられてしまった。 か細いこえで、つぶやくように鳥はさえずる。 「・・・・・誰にもひどいことしないで・・・・。アトリ、もう運命なんていらないから・・・・」 首長はアトリの髪を掴み上げた。 痛みにアトリがうめいても、眉一つ動かさない。 「最初にひどいことをしたのはお前の島だ。俺たちの檳榔売りを逃がしやがって。おかげでろくに船を操れるやつもいない。檳榔売りはどこの海に行っても怪しまれない。だから、檳榔と一緒に阿片を売らせれば、もっと豊かになれるはずだった!」 首長は年の頃は60を過ぎているだろう。 海で暮らす男だと、肌が、体つきが物語っている。 彼らの島は、アトリの島より小さい。 そして周囲を美しいサンゴで囲われて、島の陸地も白いサンゴのかけらでできている。 それはつまり、人が生きるには瘦せすぎた海なのだ。 浅く透明で美しい海には、人が糧とする魚群はいない。 白く美しくさらさらの土地では、人が鍬を入れても作物は育たない。 檳榔はいらんかね。 暑いひざしのもとで生きるだれにとっても、心地よいさえずり。 朗々と涼やかに歌い上げて歩き、時にはゆっくりと船団の間を通り過ぎる。 痩せた海と土地で生きるために働く誰もが、手を止めることを許される瞬間。 アトリはそれが好きだった。 檳榔売りとは、そういうものだった。 「・・・・ひどい!!!!!謝って!檳榔売りをそんなことに使っちゃいけないんだよ!!!アトリたちは、そんなことのために、檳榔売りをしてるんじゃないんだよ!」 「奴隷の分際で偉そうなことをいうな!」 「なにそれ!アトリやだですけど!」 「おまえたちは言われた通りに阿片を売り歩けばよかったんだ!!お前の島の連中は、寄ってたかって檳榔売りをにがしやがって!何十年も前にそんなことをしやがったと思ったら、今度はお前の父親と母親だ!檳榔売りをまた逃がしやがった!だから!」 体がこわばった。 一気にいろんなことを聞かされて、アトリの心にはもうちょっともはいらない。 でも。 でもその先は。 もしかしたら。 そんな気持ちがまったくなかったわけじゃない。 もしかしたら、どこかで。 そんなことを考えない、親を知らない人がいるだろうか。 「だから、選ばせてやった!島同士の戦争か、お前の両親の首かどっちかを選ばせてやった!お前の両親はな、俺たちの目の前で海に身を投げたんだ!自死は罪だ!だからお前は檳榔売りになったんだ!父親と母親のせいでな!」 「・・・・・・・・・・ッ」 アトリは言葉がでなかった。 心にさえ浮かんでこなかった。 心のままに生きることが、こんなにもつらいことなのだと知らなかった。 「俺たちの島を飢えさせようとした!大罪人だ」 そういうと首長はアトリを自分たちの船に連れ込み、甲板に転がした。 「お前はこれから一生阿片を売るんだ」 人形のように動かなくなったアトリを嘲笑い、ヤンバルに向けて帆を勢いよく張った。 アトリは船の達人であるがゆえに、帆の向きと潮の流れと風の強さで、彼らがどこへ向かおうとしているのか聞かずともわかった。 「・・・やめて。どうして、アトリはここにいるのに、ヤンバルへ行くの・・・やめて」 もうアトリの声は彼らには届かない。 首長が船員たちに声を掛ける。 「西施の荷物を取り戻しに行くぞ!阿片の分け前は俺たちのもんだ!」 「おおお!」 「レスターヴァの援軍も来る!海賊たちはヤンバルのために戦ったりしねえ!俺たちの勝ちだ!」 口々に船員たちが呼応する。 アトリはやっと、この船が西施の船なのだと理解できた。 ああ。 こんなものより。 こんな船よりももっと早く強い船を知ってる。 もっと多くのものを運ぶ力のある、アトリの次に速い船。 ホーク あの黒船は。 ヤンバルでアトリが見たほかのどんな船よりも。 「・・・・・ホーク」 ここにきて。 アトリを見つけて。 涙がこみあげてくる。 背中が痛むような気がした。 飛んでいきたい。 ホークのところへ。 相談してから来ればよかった。 何かする前に相談しなさいって、アーロンに言われたところだったのにな。 風が頬を撫でる。 その風の行く先がまるで見えるかのようだった。 ホークのところへ。 「ホーク」 ここへきて。 ここにいるの。 ヤンバルが。 ホークの愛しているものが。 「ホーク・・・・・・ッ!!」 風が見える。 こぼれおちた涙が、水滴が水たまりを作る。 船の揺れが、潮風が波紋を作る。 けれどその一瞬から、アトリが心の底からホークを呼んだ瞬間から、波形が変わった。 檳榔売りは風を見て、波を見る。 その波紋は、嵐の前の波紋だった。 「なに・・・・?」 嵐の予感に気が付けないアトリではない。 だからこそなんの予兆もなく訪れたその不穏な波長に、はっと船首を見る。 海は凪いでいる。 風は吹いている。 けれど。 誰も気が付いていなかった。 しかしアトリにははっきりと感じられた。肌に感じるこの空気。嵐の前に現れる風も波も。 すでにこの船を捕らえている。 「あ?なんだ?さっきまで・・・」 聡い者がなにかに気が付いた。 水平線と空の境界から、何かがこちらを目指している。 青い閃光が空と海を割くように走る。 ごごごご、と船底を引きずるような音が空から聞こえる。 「な、なんだ!これは!こんな嵐、起こるはずがねえ」 首長は慌てて帆をたたませる。 ぽつ、と降り始めた雨は、一気に頬を打つような強い雨に代わる。 アトリは知っていた。 アトリの船は嵐にそれほど強くない。 だからヤンバルであの船を見たとき、これは嵐を超えていける船なのだと構造が教えてくれていた。 そして。 そしてあの閃光。 アトリは立ち上がった。 縛られてもつれる足で、転がるように船首に躍り出る。 「てめえ、動くな!」 首長がアトリの髪を掴んでも、嵐を目指すことをやめなかった。 「ホーク――――――――ッ!!!!!!!!!!」 檳榔売りのどこまでも伸びる声が、嵐の中を飛んでいく。 まるでその言葉に呼応するかのように閃光が走る。 その色は青。 ごう、っという音を立てて、まるで海を割るかのように現れたのは、ヤンバルの海で唯一そう呼ばれる黒船だった。 まだこの海が、海の民と呼ばれる者たちによって治められていたはるか昔から存在する、魔力を秘めた船。海の民の長でしか操ることのできないこの世で最も屈強な船。 たとえ今後、哀れな青年が蒸気機関と火薬を積んだ船を発明しようとも、決して超えることのできなかった船。今はだれもがそんなことは知らず、魔力や魔術など廃れた浅い海の者には海の民ということさえも、もはや畏敬の念すらも沸かないものだったが、それでも。 それでも、嵐とともに現れた男の眼光の鋭さに、戦きを覚えなかった者などいなかった。 「アトリ!!!!!!」
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