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「はあ~、どうしようかなぁ」 広い広い大海原。 アトリの島の周辺とは違い、どこまでも深く濃い色をしている。ひょっとすると夜空よりも濃く深い色をしているのかもしれなかった。 空と海の狭間にはどこまでも続く水平線が見える。 時折その境界線に船が浮かんでいるのが見えるが、アトリはあれが幻であることを知っていたので、そっちに行こうとはしなかった。その現象が蜃気楼と呼ばれるものであることさえアトリは知らなかったが、大きな大きな海ではそういうことがあるということだけは、船を操って檳榔売りをするアトリにはよくわかっていた。 波はどこまでも凪いでいた。 もうアトリを追ってくる影もない。 空を雲が流れていく様子をぼんやりと見ながら、アトリは大海にぽつんと浮かんでいる自分と船を思い描いた。 「陸地ってまだなのかなあ。もう食べるものないんだけど」 アトリは寝っ転がりながら、売り物の檳榔を一つつまんでぽちゃんと海に投げ込んだ。 「船も通らないから、檳榔も売れないよう。檳榔と食べ物を交換してもらえるとおもってたのに」 実は、島の反対側をこんなにも船で出てきたことはなかったのだ。 島を出て三日。 アトリの船にはもう檳榔以外、何も口に入れられるものはなかった。 運命の人どころか、アトリの運命が尽きてしまうかもしれないのだった。 想像していたよりも島の反対側の海は広かった。 檳榔売りたちは行ってはいけないとよく言われていたので今まで来たことがなかったが、こんなにも広くて船も通らない海なら納得できる。 檳榔を売る相手がいないのだ。 「運命の人を探すのって、こんなに大変なの?」 独り言を拾ってくれる人はいない。 ただアトリはずっと一人で檳榔を売ってきたし、ずっと一人で暮らしていたし、そんなことはどうでもよかった。本当にアトリは寂しいとか、誰かと一緒にいたいとか、感じたことがなかった。 「誰かアトリに教えてくれてもよかったのに」 おそらくは誰かがアトリに教えていたが、アトリは聞いていなかったのだろう。そんなことは知らないアトリはふうとため息をついてまた空を見上げ、特にすることもないのでまた昼寝でもしようかと目をつぶった。 しかしその時だった。 アトリの耳には潮のささやきとともに、鳥たちの羽ばたくおとが聞こえた。 はっとして目を開くと、太陽をつばさで遮るものがある。 「……カモメだ!」 アトリは飛び起きた。風もないのでたたんでいた帆をすぐに張る。目を凝らして、鳥たちの羽がつかんでいる風の道を感じようと、まるで太陽を掴むかのように空に向かって手を伸ばした。 鳥たちが鳴く。 まるでアトリに風のありかを教えるかのように。 「おーい!」 伸ばした指先を、風が撫でていくのがはっきりとわかる。 「こっちだ!」 勢いよく船の上を飛んで帆の向きを変える。 その瞬間、帆をめがけて吹き下ろしてくるかのように風がアトリの船を捕らえた。鳥たちがつかんでいる風と同じ風だ。 カモメがいる。 それはつまり、陸が近いことを意味していた。 アトリは白い船をまるで波のように海の上を滑らせる。 「よーしッ行くぞ~!」 カモメのいるところには人がいる。 アトリはやっとこの空腹から解放されそうだと知れて、船を操りながら上半身を大きく空へ向けてそらして、大きな声で喜んだ。 その声にまるで答えるかのように、カモメたちが船の横を通っていく。 先に行くよ。 そうアトリに語り掛けてきているようだった。 ヤンバルの街へ向けて、一艘の商船が穏やかな海を進んでいた。 もうすぐ陸地が見えてくる。 長かった船旅が終わる。 そんな期待に胸を膨らませた客たちが時折甲板に出てきて、水平線の向こうに街の建物の影がないか目を凝らしていた。 水夫見習いとして船に乗っていた少年は、そんな客たちを白けた目でみていた。 少しずつ小さな島や岩礁が見えるようにはなってきている。 しかし近づいてきたとはいえ、まだかかるのだ。 それに陸地の近くに来たということは、別の危険も近づいてきているということ。 のんきな客に文句の一つでも言ってやりたい気持ちを抑えながら、甲板に這いつくばって木目を磨く。水夫のじいさんと一緒にもくもくと仕事をするだけだった。 「ん?なんだ、ありゃ」 そんな少年の目に飛び込んできたのは、ものすごい速さで海を進む一艘の小さな船だった。 「あんな船見たことがないぞ……、船から変なものが出てる」 少年の言葉を、近くにいた客の男が拾う。 「小僧、何を見つけた?面白いものだった駄賃をやるぞ」 この航海で仲良くなった客だったので、少年は気易く答える。 「じゃ、間違いなく先に駄賃もらわねえとな!俺はあんなヘンテコな船、見たことがねえから」 自信満々で手を客の男に差し出す。羽振りがいいのか悪いのかよくわからないその男は、少し笑って少年の頭を押すように撫で、指さす先の船を見ようと身を乗り出す。男の下にしゃがみ込んで、少年も同じく甲板から下を覗き込む。 「な!船から変な棒が出てるだろ?ヘンテコだ!」 「……確かに。こっちへ近づいてくるな」 そう言った男は、自分の乗っている巨大な帆船の帆を見上げる。 どの帆も全開に開いている。 「この最新の商船よりも速いとはな」 アトリの小さな船は瞬く間に商船に追いつき、下から声を掛ける。 アトリは檳榔売りだ。 掛ける言葉はきまっていた。 「おおーい!檳榔はいらんかねーッ」 不思議そうな表情で客たちがアトリに注目する。 アトリは早くからこちらに気が付いていた男と、目が合ったような気がした。 「檳榔はいらんかねー!」 器用に帆の開き具合を調整して、商船の速度に合わせる。縄を投げて船を船をつなぐと、檳榔をさらに抱えて上へよく見せる。 なんども檳榔はいらんかね、と叫ぶが船の上から不思議そうな視線が降り注ぐだけで反応がなかった。 なんなの!とアトリは思った。 もうお腹がすいてしょうがないので、早く誰か檳榔と食べ物を交換してほしかった。 「檳榔…?ってなに?」 船の上では少年が男に問いかける。 男はうーんと顔を顰める。 「ああ~、昔じいさまがたしなんでいたようないなかったような。なんだったか」 すると、二人の悩みを遮るかのように、年老いた水夫が歓喜の声を上げる。 「檳榔売りか!昔はよく見たが、まだおったのか!」 老水夫は身を乗り出すと、アトリへ向かって手をふる。 「懐かしいのう、何も変わっておらん。おーい、一袋おくれ!」 老水夫の声にアトリは手を振った。 「食べ物と交換してー!お腹ペコペコなのー!」 アトリの言葉に水夫ははて、と首をかしげる。 「食べ物かあ、なにかあったかのう」 「持ってるぞ、爺さん。このオレンジをくれてやったらどうだ?その代わり、その檳榔を俺にもわけてくれよ。どんなものなのか知りたい」 「おお、良いのかのう!お安い御用さ。檳榔なんてものをまた楽しめるとは、神の思し召しじゃなあ」 男からオレンジを受け取った水夫は、上着を脱いでロープで袋のように縛って中にオレンジを詰めた。 「いくぞー!」 水夫の声かけとともにアトリに向かってオレンジが投げられる。器用に受け取ったアトリは、オレンジを見て喜んだ。 「やったあ!」 するとアトリは檳榔をその上着に詰めてまた声を張る。 「いくよー!」 投げ返そうとしていると知って、少年が慌てる。 「おいおい、届かないよ!あんな小さな子じゃ無理だ」 「小僧、あの子は檳榔売りじゃ。心配いらん」 「ほーう、そういうものか」 「そうじゃ。檳榔売りは船の達人じゃし、このくらいのことは朝飯まえじゃろうて」 水夫の予想通り、アトリは甲板に余裕を持って檳榔を投げ返した。 「すっげえ!」 飛んできた檳榔の重さに、少年は信じられない思いでアトリを見た。 アトリは下から無邪気に両手を振る。 「檳榔売り……面白いな」 商船の客の男はそう言って懐から金貨を取り出し、アトリに声を掛ける。 「檳榔売り!もう一袋だ!」 ぴんっと高い音を立てて金貨が落ちていく。キラキラと光るそれを、アトリは浮き木の先に体を乗り出してキャッチした。 「なにこれ?鏡かな?にしてはあんまり映りがよくないよう」 上を見ると男がこちらを見ている。 きっと食べ物を持っていないのだ。 貧乏なのだ。 「アトリぜんぜんこんなの欲しくないけど、何にも売ってあげないのはかわいそうだよね…」 うーんと悩んだ後、アトリは檳榔を小袋に分けて一つだけ売ることにした。 「いくよー!」 投げ返すと、男は袋の小ささにまじまじとアトリを見た。 どうやらこの船では、あの老人以外は自分の客ではなさそうだとふんだアトリは、船を進めてしまうことにした。食べ物がまだあるうちに、早く人の営みのある場所を目指さなければ。 「じゃあね!」 ぶんぶんと手を振ると、老人が手を振り返してくれてアトリはうれしかった。 ばっと勢いよく帆を張って、カモメたちの使っていた風を捕らえる。 再びぐんぐんと勢いを増したアトリの船が、あっという間に商船を追い越していってしまった。 「あいつ金貨にこんなちょっとしか檳榔を売らなかったぜ!」 商船の上では、少年がぷりぷりと怒っていた。 男は麻で造られた小袋と、中身の檳榔をしげしげと見つめる。 「まあ、そう騒ぐな。確かに面白いものを見られた。これは駄賃だ」 そう言って男は少年に金貨をはじいて渡す。 「わ、わ、わっと」 落とさないように慌てふためきながら、少年は床に押さえつけるように金貨を拾った。 「噛み煙草みたいなもんじゃよ。むかーしは、こんなもの珍しくもなかったんじゃが」 「あれほどの操舵の技術、あれが普通だったのか?」 商船を追い越して見えなくなってしまったアトリの白い船。 男の興味を捕らえたのは檳榔というよりも、檳榔売りとその船だった。 アトリの船についていた、少年がヘンテコだと言った浮き木。 帆とその浮き木を器用に使って、アトリは船の上でまるで陸地のように自由に動いていた。 それにまるでどこから風が吹いてくるのか理解しているかのようなタイミングで、帆を勢いよく広げ、体重移動で船首を浮かせて進んでいく技術。 男の目には新しいものとして映ったのだ。 「そうとも。檳榔売りはな、風の道が見えるのじゃよ。だから鳥の名前を付ける。あの子もきっと鳥の名前をもっておるじゃろう」 「鳥の名前…。この船を追い越して行ったということは、行先はヤンバルの街か」 「あいつ、せこい商売しそうだぜ」 金貨に釣り合うだけのものを返さなかったアトリを、少年はよく思っていなかった。 口をとがらせて文句をいう。 はっはっはっ、と男がその様子に笑い始めた。 「な、なんだよ」 「いや、そう見えるのかと思ってな。あの檳榔売りはきっと金貨を知らないのだ。首をかしげてじろじろ見ていた」 甲板には穏やかな風が吹いている。 陸地の近さを示すように、カモメたちがマストに止まっては羽を休めている。 「俺にも鳥の名前がついているが、はたしてあの檳榔売りは風以外の流れが読めるだろうか」 面白そうに男がそう言うと、少年も老水夫も少しばかり顔をこわばらせた。 「滅多なことを言うなよ」 「本当のことだ。通行証を持っているといいが」 陸地が近くなってくると、別の危険が近づいてくる。 それはこの商船にも降りかかってくる危険でもあった。 心なしか、風が強くなる。 何を感じたというのか、穏やかに羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立っていく。 3人はその様子を見つめていた。 客の男だけが、不適な笑みを浮かべている。 「ここから先は、海賊の住処だ」
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