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「陛下!陛下!」
女王はうしろから追いすがってくる男を振り返ることはしなかった。それよりも草原の営巣地や港の薪炭の管理を口々に奏上する者たちの言葉に、歩きながら耳を傾ける。
「お待ちください、どうか!」
男は必死に女王を追いかけるあまり、躓いて転ぶ。
女王の部下たちはその無様さに嘲笑さえ浮かべた。
彼らの女王が、地面に躓くなどという軟弱な行為に手を差し伸べるはずもない、ということを知っているからだ。
案の定女王は何の関心も示さず、変わらずに進んでいく。
男は起き上がって再び追いかけた。
彼の脳裏は、母親に国を追い出された娘のことでいっぱいだったからだ。
「お願いです、どうか、出陣などお考え直しください!」
あまりにも男はしつこかった。
どうせいつものように、どこかで諦めて恥じ入るようにかえって行くのだろうと思っていた女王は、気の弱いその者が自身の馬の前にまで立ちふさがろうと追いついてきたことにかすかに驚いた。
そして本当に、そこで初めて彼は何の話をしているのだろうかと興味を持った。
「はあ、しつこいわね。なんなの?買ってほしいものがあるなら、乙悦おつえつに言いなさいといつも言っているでしょう?」
「・・・私が陛下から頂戴したいものは、お慈悲以外にありません。いままでも、これからも」
「あなたってかわいくないわ。ほかの夫たちのように素直におねだりすればいいのに」
彼は女王に何一つ自分の心が伝わっていないと、嫌というほど理解していた。しかし、彼を無視して馬に乗ろうとはしない女王へ、どこかほっとしていた。少なくとも今この瞬間、彼女の部下よりも関心を向けてもらえていることに、喜びを覚えずにはいられなかった。
そして娘のためにも、必ず女王の足を止めなければいけなかった。
男はその場にひざまずいた。
「西施のことです。娘の部下からの手紙が、陛下に奏上されたと伺いました。そして娘のもとへ出陣されるとも。どうか、お考え直しいただけないでしょうか」
女王は溜息をついた。
「小さな街で小競り合いになっているようだったわ。新しい市場よ、見に行こうと思うだけよ。ついでにあの子を助けてあげたっていいわ。なんなの?何が不満なの?」
男は知っていた。
彼の娘が、この国の女王にはふさわしくないほど争いを厭う性格であることを。
いや女王どころか、この国の人間として生きることさえ困難なほど、流血を嫌い、略奪を嫌悪していることを。
だから娘の知り合いからの手紙というのが、彼には納得がいかなかった。彼にとってたった一人の、愛しい娘。女王との間に生まれた、やさしい子。
女王への手紙が流血を呼び込むことぐらい、あの子はわかっている。
「あなたは私の夫でもない。私との間に娘が生まれたぐらいで、あまり出過ぎたことをするのは好きじゃないわよ」
「陛下!あの子が何を好んで、何を嫌うか、ご存じのはずです。あなたは母親なのですから」
男の言葉に女王は不快そうに眉をしかめた。
「言葉がすぎるぞ!妾の立場をわきまえたらどうだ!」
女王の部下が男を叱る。
皆の言う通り、男は女王の夫ではなかった。たくさんいる彼女の夫の一人にさえしてもらえなかった。男はそのことには不満はない。彼女の夫になるというのは、彼女のいいなりになることに等しいのだ。
男にとって不幸なことは、彼女を本当に愛してしまったことだ。
珊鼓さんこという名前の一人の女性として。
「娘は、西施は、あなたの出陣を望むはずもない子です!どうか!見放してください!もうあの子はこの国とはかかわりのない人生を歩みたいのです!」
「・・・・愚かね。だからあなたは夫にはできないのよ」
「陛下・・・」
男はひざまずいたまま、まるで縋るように女王を見上げる。
厳しい視線をしているのかと思えば、彼女は腰に手を当てながらも瞳を揺らしていた。
「私の血を引いておきながら、この国の発展には無関係でありたいなど、無責任にもほどがあるわ。あの子も、あなたも。私から何かを貰うということは、この国のために貰った分だけ血を流すということなのよ。あなたは娘を、あの子は命を私から貰った。その上好き勝手しているのだから、私のすることに口出しする権利などないはずよ」
「珊鼓さま!」
「夫として国に尽くす気もなければ、娘として国に尽くす気もない。あなたたちは私からの情けだけで生きている。私に口出しをするということを、もっと恥じて謙虚になりなさい。そうすれば夫にしてあげてもいいと、いつも言っているでしょう」
「私がこの国での地位を望んでいるとでも?娘も、ただ娘としてあなたからの愛情を望んだだけではありませんか!」
女王の部下たちは、女王の言葉どおりに男を見下している。
蔑む視線はより一層強くなる。
土に膝と手を付けながら、男は懇願する。
彼は彼女が、女王ではなく珊鼓という一人の女性だと信じて話しかける。
母親としての意識の薄いこの女性は、けれど決して愛情がないわけではないことを知っていた。ただ愛情の形を知らないだけで、持つことを許されてこなかっただけで。注ぎ方さえわからないままなのだ。
孤独だ。
男にとって、彼女はいつも孤独だった。
どれほど部下に囲まれようとも。
どれほど夫たちに囲まれようとも。
彼女はいつもひとりで、自分自身さえも愛せない。
娘の生きる街を攻撃するなどということを、彼女にさせたくなかった。
娘からも孤独になる彼女を、食い止めたかった。
「あの子の命を奪うなどと言っていないでしょう?私だって、ほかの子よりかは可愛いとおもっているのよ、あの子もあなたも。もういいかしら?」
「お願いです・・・」
「駄目よ。はあ、戻ったら行くから、それまでに機嫌を直しておいてちょうだい。乙悦に何か届けさせるわ」
彼女からかすかに向けられる興味でさえ、また一つ、何一つ伝わらないまま話が進んでしまうことを確信する材料でしかなかった。
どれほどご自分が、愛する者を軽んじているかもご存じでないのだ。
そう思うと、男は誇りを掲げて彼女からの不器用な愛情を拒むなどできなかった。彼女に唯一許された愛情の表し方なのだ。どれほど屈辱的でも、男としての矜持はないのかと人からそしられても、自分が離れればより一層彼女が孤独になるとわかっていて、拒むなどできなかった。
「・・・・はい」
彼女は安堵の笑みを浮かべた。
よくわからないが、妾の癇癪はひとまず収まりそうだったからだ。
悪い男ではないというのに、ときどきひどくこうして干渉してくるところが、生意気でいけないのだ。
馬に乗ると、妾は暗い顔をして下がった。
部下たちはそんな妾を軽蔑しながら自分たちの馬に乗る。
だからもっとふさわしく振る舞うよう言っているのに、と面白くなかった。何に彼が喜ぶのか、特に娘が生まれてからというもの全くわからない。だが嫌いにはなれない。正直、頭の良さで言えば夫たちや元老院たちよりも、彼が抜きんでている。
もう少し物分かりがよくなってくれれば、夫にしてやってもいい。そして仕事を手伝ってくれたらいいというのに。
そんな思いさえ、いつも彼女に抱かせていた。
妾の機嫌に面倒だと感じながら、彼女は馬上から呼び寄せた。
素直に近づいてきた男に、馬上から接吻をする。
優秀な男だ。
あまり周囲から軽んじられて、権力を失わせても困る。
自分の息のかかった者が気軽に馬鹿にされるのも、正直行き過ぎては自分の沽券にもかかわる。
だから皆の前で愛情を示してやったというのに。
妾の顔は悲しそうだ。
まるで哀れんでいるかのようだ。
夫たちなら泣いて喜ぶというのに。
「・・・・・・ご自分からお一人にならないでください。私がおりますことを、どうか思い出してください」
言っている意味がよくわからなかった。
待っているという意味だろうか。
「・・・早く戻るわ」
「お気をつけて」
馬を走らせる。
草原の土を踏みしめて、港を目指す。
ヤンバルという小さな街へ向けて。
海は広い。
海に目を向けて進んでよかった。
地図にさえない島々、聞いたことのない国々がまだたくさんある。
なにより、草原よりも妖魔が少ない。
とても良いことだ。
部下の一人が声を掛けてくる。
「陛下、今度こそ妖魔のいない海だと良いですな」
皆その言葉に笑う。
少ないだけで、いないなどということはないからだ。
「そんなものはこの世にはないわ」
また皆がわらった。
「陛下はこの世のすべてを手にされる運命なのですよ」
弱気なことを揶揄される。
若い少女のころは、本当にそんな運命を手繰りよせるのだと息巻いていた。
妾が痴話げんかなどを皆の前でけしかけてくるからいけないのだ。
「運命というのはね、必死にもがいた轍のことをそう呼ぶのよ」
風が強く吹いている。
女王の後には、蹄鉄の痕が深く刻まれていた。
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