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密林の木々は湿っていて、地面は黒い土の上に幾重にもシダの枯れ葉が積もっている。
小さな小川の岩は緑に苔むしていた。
ホークは川の水をすくいあげ、かすかに口に含む。
「真水だ・・・」
アトリにも水をすくって飲ませてやる。
小さな口をホークの大きな手につけ、んくんくとアトリもおいしそうに飲み干す。
「おいしいね」
「ああ。ここは豊かな島だ」
マゲイたちは歩を緩めない。
遠のいたり近づいたりしながら、ホークとアトリは後ろをついて行く。
どれほどすすんだだろうか。
人が入れるほどの岩屋の前で、マゲイは二人を振り返った。
「・・・・・・何もないところだけど、とりあえず服を乾かしましょう」
岩屋には不思議と生活感があった。
入り口には竹と蔓で編んだ扉が設けられ、アトリの島の人たちがするように、季節の草花が織り込まれたリースが掛けられている。
そのリースがいびつな形をしていたので、アトリにはマゲイが造ったのだとすぐわかった。トートは檳榔売りだ。小さな檳榔をキンマの葉でくるむなど朝飯前だし、ましてやそれよりも大きなリースなど、なんということもない。だからあまりよくない出来のものを扉に掛けるというのは、それがこの家の大切なものだからに違いなかった。
「わあ」
岩屋の中は快適に整えられていた。
一目でトートが造ったとわかる美しい敷物が出迎えてくれて、棚には食料や調味料、食器などが並んでいる。
食器に刻まれている縄の模様、2枚貝の模様。
アトリはそれから目が離せなかった。
「・・・・マゲイちゃん。トートと結婚したかったんだね」
縄は良縁を。二枚の貝は夫婦を。
ここは結婚したばかりの二人の住処そのものだった。
マゲイは怒らなかった。
ただ黙って、柔らかい大判の手ぬぐいをホークとアトリによこした。トートも何も言わずに、アトリ達の服を干そうとしてくれていた。
「別に、諦めてないわけじゃないもの」
「マゲイ・・・」
トートのあきれたような、いさめるような優しい声に、マゲイはきっと目を吊り上げた。
黙って首を振りながら、トートはアトリの服を脱がそうとする。
ホークはそこではた、と思いいたってマゲイに声を掛ける。
「魔術で服を乾かせばいい」
ホークの言葉に、アトリもああという顔をする。
「ホーク、やってやって」
ホークが魔術を隠さない様子なことに、アトリはなぜかうれしかった。
ぎゅっと抱き着くと、大きな手が頭を撫でてくれる。
「やってみたらいいわ。できるのかしら」
魔女の挑発するような声にいちいち腹を立てたりはしないが、奇妙ではあった。
「それくらいは」
「海の民は力を加減できないでしょう」
それは図星だ。
だが正確ではない。
ホークの中にくらい気持ちが顔をのぞかせる。起してしまったあの嵐の中を、仲間たちは無事にヤンバルに帰れただろうか。
「・・・俺たちは誰彼構わず襲うような民じゃない。魔術もそうだ。ある程度はできる」
「そういうことを言っているんじゃないわ。気を付けてね、アトリはこっちにいらっしゃい」
マゲイの声に呼ばれてアトリは素直にマゲイのそばに行き、うんしょと座り込んだ。
怪訝そうな顔をしてホークは指をならそうと右手を出す。
「・・・なんだ?」
「どうしたの、ホーク?」
「いや・・・」
指に走るはずの魔力の流れ。
血液のように体をめぐる力の流れ。
なぜかそれが感じられずに、ホークは困惑した。
ぐっと力を籠めると、かすかに感じる。
「・・・おかしい」
「この島では無理よ。浅い海では、魔力は使えないわ」
「いや、できる」
「無理よ」
ホークは少しムキになっていた。
海の民として、魔女の前で魔力が劣っているところなど見せられない。
ホークは無自覚だが、海の民特有の謎の魔女に対する信仰心と義侠心があった。
ぐぐぐっと、細い糸の先の向こうの思いものを引きずるような感覚で、糸が切れないように注意を払いながらさらに集中する。
額に汗が走る。
「ホーク」
その真剣な様子に、アトリが立ちあがってホークのそばにくる。
ぎゅっとまたホークの腰にだきついて、むに、とほっぺたを寄せる。
「がんばって!」
「アトリ、あぶないよ」
トートが声を掛けてもアトリは退かない。魔力も魔術もよくわからないトートとしては、どうしてあったばかりのマゲイとホークが、服を乾かすだけでこんなにムキになっているのかわからなかった。
「君たちは楽しそうだなぁ」
もはやあきれていた。
アトリの手がホークの反対側の手に触れる。
肌と肌が触れ合ったとき、ホークの中に不思議と魔力の糸が切れない感覚が沸き上がった。
「いける」
「はっ、無理よ」
「見てろ、魔女よ」
ぴり、という小さな閃光が走る。いつもより細く小さいが、二人分の服を乾かすくらいはできるだろう。
「・・・無理よ、そんな」
ホークは昔に教わった呪文を唱える。
子供たちが唱えるようなレベルのものだが、仕方なかった。
ぱり、ぱり、という音が鳴る。
青い閃光がアトリとホークの体にじゃれつくようにまとわり、ふっと消えていく。
「うわあ!やっぱりホークすごいね!服、かわいたよ!」
ふわふわに乾いた服に驚き、無邪気にアトリはトートに見せる。トートはその服を触って、おや本当だねと笑いかける。
「はあ、はあ、どうだ!」
「・・・・あんた、馬鹿じゃないの」
服を乾かすだけで肩で息をするホーク。
しかしマゲイが指摘したのはそこではなかった。
「制限されてるって言ったでしょ!魔力の管理が苦手なくせにそんなことして、もし暴発してたらどうするつもりだったの!もう、危ないでしょうが!」
マゲイはそう言いながらクズ物入の籠を投げてきた。
「うわッ」
「わあっ」
アトリとホークは何とかよけたが、その籠は後ろにいたトートにぶつかってしまった。
「あっ、ご、ごめん」
マゲイが素直に謝ったことに、やはりアトリは驚いてマゲイを2度見してしまう。
「マゲイちゃんが謝ってる・・・」
トートは黙って籠を拾い上げ、散らばった紙屑なんかを拾い集める。
「ちゃんと謝れてえらいね、マゲイ」
「う、うるさい!」
「さあ、皆もう座ろう。お茶を淹れるからね」
あ、あたしもとマゲイはトートの後ろをついて行こうとしたが、お客様の相手をとトートに断られてしゅんとして席に着いた。
低い円卓の上には香りのよいお茶がすぐに用意され、トートは少し迷いをみせたが、マゲイの隣に腰を下ろした。
「ここでは魔術は使えないというのは、本当か?」
「ええ。今さっき体験したでしょう。あなたは相当な量の魔力を持っているのね。普通はここでは使えないわ。魔女の私でさえ、容易なことじゃないもの」
「いったいなぜ・・・」
「いやね。世界は広いのよ、海の民。そういう場所だってあるわ」
「浅い海すべて?」
「そうよ・・・これが見える?」
マゲイは天井を指さした。
はっきりとは見えないが、何かが描かれている。
ぽう、とマゲイの手のひらから青く淡い光が放たれる。先ほどホークが苦戦してやっと使ったような魔術を、マゲイはこともなげに行う。やはり手練れの魔女であると感じずにはいられなかった。
「わあ!アトリ、この人知ってるよ!天使さまだよ!」
「天使・・・」
映し出された壁画は、翼を広げた女性だった。
手には天秤を持っている。
「教会の天使像とよく似ている」
「もともとは同じものだったのよ。わからないの、ホーク。はるか昔に海の民は浅い海へ、丘へ、そして深い海へと別れた。浅い海では魔術が使えず、海の民はただの人になった。丘では統制が重視され、魔術の管理に優れた者たちが教会を作った、深い海に住むあなたたちは、ヤンバルという小さな町とともに海の波のように気まぐれな魔力と生きた」
マゲイはそう言いながら、壁画をさらに照らす。彼女の指に合わせて、青い光の球体が壁画を歩く。
そこにはマゲイの話す通り、海から浅い海に行く人々、丘へ行く人々、そしてどこへも行かない人々が描かれていた。
「私たちは同じ場所から来たのよ。もっとも、浅い海では魔術も魔力も無意味だったから、信仰はうすれてあの天秤と島の掟だけが残ったけれど」
「そうなの?!アトリ、知らなかった!」
「当然じゃない。檳榔売りには何も教えないわよ」
「え~!あのね、アトリね、あのね、そういうのやっぱり、いやだなって思うんだ、マゲイちゃん。昔にマゲイちゃんが言ってたこと、アトリも分かったよ!アトリさ、あのさ、みんなと同じがいいなっておもうんだ!やだなって思うこと、やだっていうことにした」
マゲイはふう、とため息をついた。
「・・・・わかるのに時間かかりすぎなのよ!」
「うん!ごめんね!」
「ばか!」
「うん!」
アトリはなんだかうれしかった。
マゲイが嬉しそうだからだ。怒ってはいるが、マゲイの瞳には涙が浮かんでいた。
ぎゅっとマゲイがアトリを抱きしめる。
涙で声が震えていた。
「アトリはアトリなのよ。トートはトートなの。わたしがマゲイなのと同じ、そうじゃなきゃ、私だっていやなのよ」
アトリはなぜだか急に、マゲイをよしよしとしてあげたくなった。よしよしと、撫でるとマゲイはさらにぎゅっとアトリを抱きしめた。
「ヤンバルで何があったの?」
******************************
乙女たちはくすくすと笑いながら、男から鳥かごを受け取った。
「まあ。どうなさったのそんなに慌てて」
「まあ、なにか大変なことでも?」
「まあ、どうしましょうかしら」
男はイライラしながら乙女たちに言う。
「うるせえな。女王さまの愛人がよ、いうこと聞かねえと家出するからなって俺のこと脅すんだよ。なんで、セトもあいつも、俺のことそんな風に脅すんだよ、実家に帰るからなって、二人して言いやがって」
くすくすという笑いは止まらない。
乙女たちは窓から顔を出して、馬上の男と言葉を交わす。
「まあ、そんなことになったら、叱られてしまうわね」
「まあ、面子も丸つぶれだわ」
「まあ、かわいそう」
ころころと鈴を転がすような声が響く。
「だからこうやって来てやってんだろ。頼んだぞ、本当に助けられるんだろうな?間に合うんだろうな?」
「まあ、疑うの?」
「まあ、ひどい」
「まあ、なんてこと」
「うるせえな、まだるっこしいんだよ。俺はこんなの得意じゃねえんだよ。めんどくせえ。とにかく、頼んだぞ。女王の娘と女王の間で戦争なんかになっちゃ、俺だって困る。その娘を助けたい父親に俺の面子をつぶされるのも困るんだ」
さわやかな海風が乙女たちの髪をさらう。
「まあ、任せておいでなさいな」
「まあ、この鳥で知らせられるだけ知らせましょう」
「まあ、女王さまの足をどなたが止めてくれることになるのかしら」
男が乙女たちに渡した鳥は、はるか彼方まで一息で飛んでいくことができる。
けれど特別な世話をしなければいうことを聞かせられない。
ほとんど女王を裏切るようなこの行為に協力してくれるのは、女王の娘の奴隷たちしか思いつかなかった。乙女たちは優雅に微笑みながら、男に手を振って窓を閉めた。
「・・・頑張れよ、西施」
まさか一番女王に遠かった彼女が、最初に女王を動かすことになるとは。
運命というのは何を運んでくるのかわからないものだ。
そう思いながら、男は世話している女王の妾のもとへ、馬を向けるのだった。
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