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トートという男がアトリをつれて出て行ってしまってから、マゲイはずっと黙り込んでいた。ホークは魔女が話し始めるのをじっと辛抱強く待っていた。
アトリ
不思議だった。
嵐の中を探しに行ったとき、不思議と声が聞こえた気がした。
黒船の部下たち誰にも聞こえていなかったが、間違いないと舵を切った。
そしてアトリを見つけた。
たった一人で、俺やヤンバルを守るために、敵に立ちふさがってくれた小さな渡り鳥。
西施から話を聞いて、飛び出していった先の行動だと言うのが信じられなかった。
あの体に詰まっている優しさと勇敢さに、ホークはお手上げだった。
アトリが好きだ。
愛している。
愛しい。
「アトリのことよ」
長い沈黙の後に、マゲイはそうこぼした。
「・・・大事にしてね。泣かせたら呪うわよ」
魔女の呪いは恐ろしい。ホークは改めてアトリがどれほど愛されているのかを感じずにはいられなかった。
「なぜあなたはアトリを嫌うふりをしているのか」
「アトリを嫌いじゃないわ。私は檳榔売りが嫌いなだけ。かわいそうな生贄たち。鳥の名前を付けられて、中にはいつか本当に翼を得ることを信じている者もいたわ」
「翼?」
マゲイは悲しそうに少し微笑んだ。そしてそうだわ、と言って奥から何か布に包まれたものを持ってきた。ホークの前でその包みを取り払うと、現れたものは天秤だった。
「あの子の親代わりの女性がね、本当はアトリが結婚したらあげる予定だったの。檳榔売りの天秤」
「・・・檳榔売りの?だがこれは・・・」
天使の信仰の残るヤンバルにおいて、天秤はとても重要なものだった。だからホークにはそれが檳榔売りのものだと言われても、にわかには信じがたいことだった。あまりにも酷似していたからだ。
「これは、天使の天秤だ」
真剣にそういうホークに、マゲイはくすくすと笑った。
「この島には信仰はないけれど、ヤンバルの人は本当に信心深いわね。これはただの檳榔売りの天秤よ、この島ではね。一人前の檳榔売りは、これで量り売りをするの。アトリに渡してあげなくちゃね」
「翼の話とは・・・?」
「この檳榔の持ち主はね、今はもう廃れた信仰に篤い人だったの。というより、檳榔売りの間でだけ、細々と信仰が続いていたのね。だからこの人は、翼を与えられると信じてた」
「聞いたことがない話だ。もともとは同じだったというあなたの話なら、彼女もきっと俺たちと同じものを信じていたんだろう?天使を」
「そうね、天使という名前さえ失われていたけれどね。でもホーク、あなたも絶対に知っているわ」
そう言われてホークは首を傾げそうになる。
ストークやシギたち教会の連中の顔を思い浮かべても、なにも浮かんでこない。
「天使の天秤には運命がのせられているんでしょう?」
「ああ、それは」
魔女の口からそのおとぎ話を聞くとは新鮮だった。
「そうだ。運命だ。ああ、アトリも運命の人を探しにヤンバルに来たんだったな。聡明な方だ。アトリに島の掟は何も知らせずに、自分から島を出るようにさせた。おかげで俺はアトリに出会うことができた」
「その運命を、この島の檳榔売りたちは翼と呼んでいるのよ。わかる?ホーク。彼女がアトリに手に入れてほしかったのは、運命の人じゃないの。だったら心のままに生きろなんて言わないわ。天秤にのせられている翼を、あなたたちの言葉で言うなら『己の運命』を手に入れてほしかったの。だから、心のままに、つまり『己のすべて』を掛けさせたのよ、あのアトリにね」
小さく息を飲んだ。
己の運命を手に入れるには、己のすべてをかけなくてはいけない。
それを彼女は『心のままに生きろ』とアトリに教えたのだ。
「彼女は何もアトリに教えたがらなかった。心から島の人を愛せるように、アトリからあふれ出すほどに、あの子に楽しさと愛しさを教えていたわ。誰の悪口も言わず、誰の不幸も口にしなかった。檳榔売りは皆彼女のことが好きだったし、私たち島の人間も皆そうだった」
「死んだら墓もないと聞いた。その割には檳榔売りの扱いはひどいではないか」
「・・・・・今、たぶんトートが連れて行ってくれているわ。私たちの島の一部の人だけが知っていることだけど、ここが檳榔売りのお墓なのよ。この島は大っぴらに弔えない人たちのためのものなの」
マゲイはため息をつく。
「だからトートは島から離れたがらないの。まあ、いいんだけどね」
「ここにいれば魔女としてほとんど力を失うのではないのか」
ホークの問いにマゲイはこともなく答えた。
屈託のない笑顔だった。
「あら!私ね、トートがいればそれでいいの」
ホークは知っている。
ヤンバルの魔法を学ぶ学校では、ストークのような教会のものでさえ卒業することが難しいことを。浅い海からヤンバルに来る者などめったにいない。入学を許可されたというだけでも、それほどにマゲイには才能があったのだろう。だが100人入学しても、卒業できるのはたった一人だ。魔法学校はその年に一人しか卒業者を出さないし、留年も許されない。卒業するということは、それだけで信じがたいほどの偉業なのだ。
その魔女が。
「それでいいのよ」
言葉はみつからなかった。彼女もまた、彼女のすべてを天秤にのせて、手に入れようとしているのだ。慰めの言葉も、称賛の言葉も、どれもふさわしくないように思えた。
「アトリの背中に大きな傷跡があった。アーロンは知らないと言っていたが、あなたは知っているか」
ホークの質問にマゲイは怪訝そうな顔をした。
「・・・どんな傷だったの?」
「瘢痕ができていた。大きなけがの痕としてできるものだ。肩甲骨のあたりに2本、縦に入っていた。獣におそわれたようにも見えるし、切りつけられたようにもみえる」
「まさか・・・」
マゲイの表情が変わる。
だが口もとは固く結ばれていた。
「まさか、とは?」
「いいえ、何でもないわ」
「そんなはずはない。何か心当たりがあるからだろう」
食い下がろうとするホークに、マゲイは指を一本立てた。
「私は魔女よ。この名にかけて不確かなことは言わないわ。でも少なくとも、アトリの命に係わるようなことじゃないでしょう。現にアトリはぴんぴんしているもの」
マゲイは机の上の天秤を見た。
何か思案に耽るような様子で、片方の皿に指をのせて離す。
アトリを育てた老女の天秤が、キイ、と小さく音を立てて傾く。
「ただ・・・・」
「ただ?」
「・・・・檳榔売りなどでなければ、彼女は偉大な魔女になったでしょうね。そういう方だったの」
ホークにはマゲイの言わんとすることがよくわからなかった。しかしマゲイが話す気がないと見て取れたので、同じように黙り込むしかなかった。
ちょうどその時だった、明るくてさわやかな風のように、アトリが息せき切って帰ってきたのだった。
***************************
「アトリ、もう寝たか?」
育ててくれた老女の天秤をもらったアトリは大事に抱えてずっと手放さなかった。寝床にはいってもそれは一緒で、ぎゅっと抱きしめるようにしていた。
「ううん。眠れない。ホークは?」
「俺もだ」
ははは、と二人の笑い声がこぼれる。
「そっちにいってもいい?」
「いいよ。おいで」
マゲイとトートが用意してくれた布団は、アトリの島のもので、なんまいもの敷物や毛布のように織り込んだ分厚い掛物を敷き詰めて寝るものだった。昼に居間として使った場所に用意された寝床はとても快適で、でも広すぎてアトリにもホークにも持て余すほどだった。
うんしょ、とアトリがホークのそばによる。肩ひじをついて様子を見ていたホークは、胸にすり寄るようにやってきたアトリの頬を撫でた。
アトリは嬉しそうにホークの手のひらに手を寄せる。
「黒船があるから大丈夫だとは思うが。浅い海の連中程度はストークも海賊たちも追い払えるだろうが、明日には帰らないとな。」
「アトリも一緒に帰る」
「ああ、もちろん」
ホークはいとおしくてアトリの唇にキスをする。
どんな顔をしているのかと思えば、とろんと蕩けたような瞳でホークを見上げていて、吸い込まれるようにもい一度唇を重ねる。
舌をすこし唇に触れさせると、アトリは素直に迎え入れてくれた。
「んっ・・・ふ・・・んう」
くちゅ、という水音を立てて唇同士が離れると、アトリのやさしい手のひらが、指がホークの頬をなぞり、髪をくるくるともてあそぶ。
こつん、とおでこ同士を合わせて体ごと抱き寄せると、アトリのそこは芯を持っていた。
「アトリ、ホークにぎゅっとしてもらうの好きなんだけど、でもね、なんか、もっとぎゅっとしたいなって時があってね。あんまりちゅーしてると、アトリ、自分でも止め方がわかんないっていうか」
反応してしまっていることを、アトリは気恥ずかしそうにどぎまぎと話す。
ホークはそんなアトリが愛しくて仕方なかった。アトリが言い訳をしている間、ちゅっちゅっと、耳に、瞼に、顎にうなじにとキスを落とす。
「聞いてる?」
「ああ、聞いてる、聞いてる」
ホークがキスをやめないことにアトリはぷうと膨れたが、ホークからまた深いキスをされると何だがとろんとなってしまって、もうどうしようもなかった。
「アトリだけじゃない。触ってごらん」
そう言ってホークがアトリの手を自分のものの上に重ねる。
そこはとても熱く重くなっていて、アトリは顔が真っ赤になった。
「あのね、えっとね、ここだとね・・・・」
マゲイとトートは洞窟の少し奥にある寝室で寝ているはずだった。
言わんとすることに合点がいって、ホークは微笑む。
「なら水浴びに行こう、アトリ」
体をくるんでいた布ごとアトリの体を横抱きにして、ホークは立ち上がって外に出る。
月に照らされた顔が、想像していたよりもずっとずっと優しい表情だったので、アトリは胸の奥がなんだか苦しいくらいだった。
そんな風に抱っこされて森を歩く。
ずっとホークといたいな。
その苦しい胸から、そんな言葉が湧き上がってくる。
運命の人よりも、ホークのほうが大事だな。
ホークの力になってあげたいな。
ぼんやりとそう思うと、背中が痛い気がした。
けれどにこにこと笑うホークの顔がまたぎゅっと胸を苦しくするから、アトリは負けないくらいにホークの首元にぎゅっと抱き着いた。
月の光が二人を静かに照らしていた。
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