83人が本棚に入れています
本棚に追加
27
浅い海はいつも凪いでいた。
海底に船底が映りこむほどに透明で、砂が海の波に巻き上げられて濁ることもない。
改めてみると、その美しさと物珍しさでホークは言葉を失った。
穏やかな波の音と鳥のさえずる声。
波の合間にアトリの声が聞こえてくる。
「ホーク~!トートが船を貸してくれるって~!」
檳榔売りの二人は器用に船を操りながら浅瀬を横切ってゆっくりと近づいてくる。
「すまない。本当に助かる」
「いいんだ。アトリのためだよ。ただ私の船はアトリの船ほど立派じゃないから、あまり速さは期待しないでくれるかい」
「ああ」
「じゃあ、マゲイを呼んでくるよ。見送りをさせておくれ」
「ありがとう、トート!アトリ、この船ちゃんと返しにくるね!」
トートが森の中へ戻っていくと、穏やかな潮騒の中にホークとアトリが残された。喧噪のヤンバルで育ったホークにとっては、やはりなんど改めてみても浅く透明で青い海が物珍しかった。
アトリは一人できゃっきゃと船の準備をしながら遊んでいて、まるで船と会話しているかのようだった。その様子を横目で見ながら、魔法が使えないという穏やかな海の浜辺を歩く。
もしかしたら。
そんなことをふと思う。
ヤンバルのごたごたがおちついたら、この浅い海に足を延ばしてみるのもいいかもしれない。自分の力を抑えきれないで、生活さえ苦しい海の民たちをここで少しの間でも暮らすことを認めてもらえないだろうか。
ホークはどれだけの差別が海の民をとりまいているのかよく知っていた。自分の力でさえ、抑えきれる自信はホークにさえない。こんな忌まわしい力を捨ててしまいたいと願っている者がいることも、よくわかっていた。
土地を持って穏やかに暮らしたいが、ヤンバルでは中々認められない。
かといって海賊など危険なことに手を染めれば、力を持つ者たちは容易に暴走させてしまう。
もしかしたら、遠い昔に浅い海にやってきた者たちは、そんな力に嫌気がさしていたのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思って歩いていると、ふと砂浜の貝殻に目が行く。
「これは・・・」
大きくて珍しい形の貝殻だった。
海の民なら知っている童謡やおとぎ話に出てくる形によく似ていた。
「アトリ、見てごらん」
船にいたアトリに見せに行くと、アトリはキラキラとした瞳を瞬かせた。
「これほど大きな貝は珍しい。アトリにあげよう。ヤンバルに帰ったらここに土を入れてやる。花の種を植えてみよう」
「ホーク、それって」
ホークは知らなかった。アトリの島ではそれは恋人たちが夢見る求愛の行動だと全く知らなかった。
好きな人同士がすることなのだと、恥ずかしがりながら西施に語ったことを思い出したアトリは、ぼっと顔を赤らめた。
「?どうした、アトリ?嫌か?」
ぼぼぼっと顔も眉も耳も赤くなるアトリ。
「う・・・アトリ、うれしいな」
「そうか?じゃあ何を植えるか考えておいてくれ。檳榔でも植えてみるか?」
あははと笑うホークの顔を、アトリは見れなかった。きゅうっと胸の奥とお腹が締め付けられる気持ちがして、顔があつかった。
「ちょっと目を離すといちゃいちゃするのね、アンタたち」
そんなやり取りを邪魔するかのように、森からマゲイとトートが出てくる。島の風習を知ってるマゲイとトートは、無自覚なホークによってもたらされた甘酸っぱいこの空気に自然と生暖かい視線になる。
マゲイとトートは航路に必要な食糧も水も豊富に持たせてくれた。
アトリの天秤には組みひもをつけてくれて、首から下げられるようにしてくれた。
「魔女の髪を編み込んだわ。きっとアトリを守ってくれるはずよ」
「・・・・マゲイちゃん、ありがとう。アトリ、アーロンにマゲイちゃんと離婚してっていうね!」
「それは・・・・まあ、こじれるから自分で何とかするわ。トートのこと言っちゃだめよ、いったら絶交だからね」
「うん」
友達同士のような気易いやり取りだった。
何年振りかのその会話にマゲイは今までで一番アトリに優しくしてやりたくなった。
「・・・運命の加護がありますように」
「マゲイちゃん・・・」
マゲイは優しくアトリの額と、首から下げた天秤に唇を落とした。
魔女からの祝福だった。
魔力を同じく扱うホークには、その接吻に青い力が込められているさまが見えた。
「忘れないで。おばあちゃんはアトリに運命という翼をあげたかったの。アトリのなりたい檳榔売りになっていいのよ」
別れの寂しさがマゲイにもアトリにも表れていた。
子供の頃の関係に戻りながら、二人は魔女と檳榔売りとして、何も知らなかった時代とはっきりと決別しようとしていた。
「・・・運命って、どんなのだと思う?」
マゲイは瞳をうるませた。
そっとトートが彼女の肩を抱いた。
「私たちにできることは少ないね、アトリ。この海では誰もがそうだ。魔女も、檳榔売りも」
トートはホークを見た。
真剣なまなざしは、日差しにさえ負けなかった。
「海の民にも」
海賊、という言葉を彼は使わなかった。
「成し遂げたいことがあって」
天秤が少し青い光を帯びていることには、誰も気が付かなかった。
まるでそれに呼応するかのように、アトリの心は泡立っていた。
どうしてだろう。
ずっと知っている気がする。
ずっと前から教えてもらっていた気がする。
アトリの脳裏には、老女との約束が思い出された。
心のままに。
そうしていればきっと。
島を出た日から今までを思い出す。
運命に出会いたい。
最初は小さな言い訳のようだったそれは、アトリにとって明日の目印のようだった。
心から自由に生きてみたい。
どうしてアトリにだけだめなの。
島にいれば一生問いかけることのなかったものが、ヤンバルであふれ出した。
ホークといたい。
ホークの力になりたい。
ヤンバルを。
皆を守りたい。
アトリに自由をくれたあの深い海を。
心に正直に生きなければ、これほど強く誰かを思うことも、成し遂げたいと思うこともなかった。
「その成し遂げたいことが、自分にできる。それこそが運命だと思う、私は」
その言葉に、アトリは背中が泡立つのを感じた。
はっきりとした何かの輪郭
それが背中から胸の奥にじん、と広がる。
「心から懸命に生きてきた者こそが、自分にできることを知っている」
ホークはアトリの手をつないだ。
何かが二人の胸を打っていた。
檳榔売りに代わって魔女の言葉がまるで祝詞のように二人に届く。
「今までの自分のすべてが、きっとあなたたちに教えてくれるわ。何を成し遂げたくて、何があなたたちにできるのか。それが理解できたとき、その瞬間こそ運命なのよ。おばあちゃんはそれを教えてあげたかったの」
風が吹く。
今までで一番強い風だった。
はっとしてアトリは帆を張った。
「ホーク、行こう」
「ああ」
浅い海を離れようとする二人を、魔女と檳榔売りは静かに見守った。
「魔女よ、心から礼を言う。トートも。海の民は二人を夫婦としていつでも歓迎する」
「マゲイちゃん、トート!ありがとう、元気でね!」
ぐんぐんと風を捕まえて、まるで急かされるように船が海の上をすべる。
「大好きだよ!」
届いただろうか。
そう後ろ髪が引かれるアトリに、ホークがぎゅっと抱きしめる。
「きっと、届いている」
「うん」
風が強く吹いていた。
************************
「行ってしまったね」
「・・・うん」
トートに肩を抱かれながら、マゲイはアトリたちの船が小さく見えなくなるまで見つめていた。
水平線の向こう側に船が消えていく。
運命をアトリは見つけられるだろうか。
「あら?」
アトリとホーク
小鳥と猛禽のような組み合わせの二人が消えていった水平線から、一匹の鳥が一直線に飛んでくる。その速さは尋常ではなかった。
「あれは・・・。誰かが君に飛ばしたみたいだね」
「こんな不躾なことをするのは、あの3人娘くらいだわ」
「ああ、君が船に出向いて勉強を教えてあげたあの子たち」
びゅうっと風を切る勢いで飛んできた鳥は、マゲイの伸ばした指の先にぱたぱたと羽ばたいて止まる。トートが腰袋から雑穀を出して食べさせてやると、よほど空腹だったのか見たこともないほどがっついて食べた。
『お師匠さま』
鳥は伝言を話し始める。
『・・・というわけで、ヤンバルという場所に危険が迫っております。わたくしたちも向かいますが、間に合うかどうか。ご助力をねがいます。女王が船団を連れて出立されました』
その内容にマゲイは目を見開く。
今しがた見送った二人の行方を思わずにはいられなかった。
「なんですって!どうしてそう、ややこしくなるのよ!」
**********************
「なんでそうなるんだ!」
中々に余韻のある出会いと別れを浅い海で経験したアトリとホークのもとに、マゲイからその知らせがきたのはそれからすぐのことだった。
まるで海のように気まぐれに、こちらの都合などきにも止めずにころころと状況が変わるヤンバルに、ホークは本気で腹を立てた。
アトリが体を張ってヤンバルを守ろうとしたのもつかの間、そもそも阿片を売りたいという野望以外はどうでもよくなっているほかの島の者たち。
争いを始める海の民とヤンバルの民。
なんとか仲裁できると思っていたが、それに輪をかけてよくわからない野蛮な国の女王が責めてくるという。
「だれを攻めてくるんだそいつは!」
魔女の魔術で動いている妙な鳥は、離れた場所にいるマゲイとホークたちをつないで会話ができるらしく、ホークはマゲイの声で話す鳥に話しかける。
船を操作するアトリもはらはらとした様子だった。
「あたしが知るわけないでしょう!!一番関係ないのはあたしなんだからね!」
鳥が小さく、おそらく後ろで話しているトートの声を拾う。ホークが悪いわけじゃないじゃないか、と諭されていたが、癇癪を起こしていた。
「なんなのよ!もう!とにかく速くヤンバルに戻りなさい!アトリ、聞こえてるでしょ!」
「聞こえてるよう!でもヤンバルってそんなに近くないよう」
また鳥が金切声を上げる。
鳥の声なのかマゲイの声なのかわからなかった。
「じゃあ、私が使っているこの鳥、ヤンバルに飛ばすわ。アンタたちとつないでくれるように。小一時間で向こうとつながるはずよ。ホーク!ヤンバルでは誰が話せる奴なの?」
「ああ、ストークという、教会の大司教なら話の分かる奴だ」
「ふーん、そいつに鳥を飛ばすわ。私は島長にほかの島の連中を止めてくれるよう話す。あんたたちはあんたたちで頑張りなさいよ!いい?アトリに何かあってごらんなさい、全員呪うわよ!!!預けたとたんこんな厄介なことになってるなんて、とんだ甲斐性なしよ!」
さんざん怒鳴られて怒られたが、なんでそんなことになっているのかホークにもわからないので、黙って耐えるしかなかった。
マゲイが鳥を飛ばしてから、船の舳先に停まっている鳥は話さなくなった。しかし魔女の言った通り、太陽が少しばかり傾いてきたころにはストークの声が鳥から放たれる。
「ホークか!」
「ストークだ!ヤッホー!」
「アトリも無事か、よかった!」
鳥は後ろの声も再現しているらしく、ストークの声の後ろから西施やアーロン、そしてがやがやとした喧噪が聞こえてくる。
「なんでこんなことになったんだ」
「あたしのせいよ!あたしが悪いのよ!悪かったわね!」
西施が割り込んでくる。涙声だった。
「どうしよう!お母さまは阿片なんてどうでもいいの。みんなを傷つけてここから追い出してしまうわ。どうしよう!」
「とにかく止めるしかないだろう。できることをするんだ」
ホークの声に西施は鼻をすする。
「お前、ありったけの海賊たちをヤンバルに集められるか。奴らはお前にしか束ねられない」
ストークの言葉にホークが答える。
「ああ。教会の鐘を3回鳴らしてくれ。それで集まってくるはずだ」
「浅い島の者はまだこちらに着いていない。西施、阿片を捨ててもいいな」
沈黙が続いたが、西施が頷いたらしい。
「そうか。ありがとう。そういうわけだ、お前の屋敷にあるんだろう、あれを捨てるぞ」
「ああ。だが西施の母親たちがヤンバルに着くのを止めなくては」
「無理だろう。こっちだってできるだけ固まらないといけない。ヤンバル以外に集まれる場所なんてない」
「そうだが。娘から直接母親に直談判はできないのか。ヤンバルにたどり着くまでにあきらめさせるか、俺たちがまとまって沖に出られるまで足止めを」
「無理よ!お母さまの船も商船くらい速いのよ!今から私が頑張って沖に出ても・・・、途中でうんと速い船に乗り換えたりできるんなら、別だけどね!」
西施はあきらめきっていて、策を考えるストークやホークたちを馬鹿にさえしていた。
絶望が彼女に前を向く力を奪っていた。
「あるわけないじゃない!商船よりも、あんたの黒船よりも速い船があるっていうの!馬鹿じゃない!みんなもうだめなのよ!」
しん、と鳥は話をやめてしまった。
船の縄を握るアトリの手が、ぎゅっと握りこまれた。
「いいか?この鳥で話すのか?アトリ、聞こえるか」
「アーロン!」
静寂を破ったのはアーロンだった。
その声は落ち着いていた。
「アトリ、お前の船が黒船と一緒にヤンバルに戻ってきているんだ」
「え!そうなの!!!」
その時、急にホークががっとアトリの肩を掴んだ。
向こう側でも、ストークがアーロンを押しのけて話し始めた。
「そうだ、アトリだ、アトリ!お前、お前の船は、速いんだったな確か!」
「できるか、アトリ!西施をお前の船に乗せて海に出る。その船を見つけて、お前は西施を連れて風よりも速く西施の母親の船団にたどりつけるか」
ホークの真剣なまなざしに、アトリはふふっとおかしくなった。ヤンバルや西施にとっての船の速さなど、檳榔売りにとっては取るに足らないものだからだ。浅い海の者にとって、深い海の船は遅い。
アトリは初めてホークに出会ったときの大きなのろのろと波をすべる帆船を思い出した。
海に飛んでいった通行証を取ってきたアトリ。
ホークもその速さを思い出していた。
おそらくそれはアーロンも同じだったのだろう。だから一人落ち着いていたのだ。
「落ち着け、ストーク。アトリ、俺がお前の船に西施をのせていく」
風よりも。
波よりも。
海に出たら誰にも追いつけない。
ただでさえ速い船を持つ浅い海の者にそう言わしめた檳榔売り。
それが檳榔売りのアトリだった。
「うん!アトリ、できるよ!」
最初のコメントを投稿しよう!