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海のどこから風が吹くのか。 波の始まりはどこからなのか。 運命の人はどこにいるのか。 自分には知らないことだらけだ。 アトリはずっとそう思ってきたし、きっとこれからもそう思う。 ホークの言った『海の蛮族』という言葉の意味を理解できなかったアトリは、びゅうびゅうと吹く風に服がぱたぱたとはためく音を聞きながら、ふとそんなことを思った。 ホークをのせた船はぐんぐんと勢いを増して陸地に近づいていく。黄色がかった岸壁の上に、濃い緑の木々が生い茂る姿が見える。 「ヤンバルはどんな街なの?人ってたくさんいる?」 船首から進行方向を眺めるホークの背中に語り掛けると、朗々とした声が返ってくる。 「にぎやかな街だ。昔、海の民という漁民たちの街だったが、今は大陸人たちがやってきて大きな大きな街を作った。人もたくさんいる」 「そっか~!たくさんって、1000人くらい?もっと?」 アトリがそう口にすると、ホークが笑いながら振り返った。 黒い髪が潮風に流れる。 「はっはっはっはっ!アトリ、お前は本当に面白いな!お前と話していると、心が洗われるようだよ」 「なんで?」 アトリはちょっとだけむっとして、頬を膨らませた。 少し馬鹿にされているような気がした。 怒るな、怒るなと、笑いながらホークがゆらゆらと手を振る。 その時だった。 「あ・・・・」 ホークが豊かになびく黒髪をかき上げた向こうに、赤い色が見えた。 何だろう、と思って目を凝らそうとした。 しかしよく見ようとする前に、風がぐんぐんと船とアトリの背中を押してその正体に近づけていく。瞳に飛び込んできた光景に、アトリは思わず口が開いた。 「アトリ」 ホークの声には慈しみさえ含まれていた。 この街を、アトリは今から好きになる。 そんな確信があった。 いや、そうあってほしいというホークの無意識の思いがあったのかもしれない。 切り立った岸壁に見たこともない真っ白な壁、その壁を覆う赤い屋根。 いくつもの建物が連なるようにして丘一面にそびえたっていた。 太陽の光がまぶしいほどに街並みを照らしている。 建物には無数の窓があり、窓の数からアトリにはあれが島で一番大きな建物よりも、何倍も大きいことがすぐにわかった。しかし目を疑うほどに、そんな建物がひしめきあっている。 ほら、やっぱり。 アトリは胸が甘く痛むようなきがした。 帆を操る手でぎゅっと胸を押さえる。 知らないことだらけだ。 それがこんなにうれしいのは、どうしてなんだろう。 どうしてこの街がこんなにきれいだって、誰も教えてくれなかったの? 初めてこんなにも島から離れ、たどり着いたヤンバルの街。 その光景に圧倒されながらも、吸い込まれるようにアトリの白い船は近づいていく。 アトリの瞳に移る街の輝きを、ホークははっきりと感じた。 「この街には6万人ほどの人が住んでいるんだ」 ホークの声がアトリに届く。 しかしアトリはあまりにも美しい街の姿に、視線を外すことができなかった。 「6万人…」 それはアトリの『たくさん』をあまりにも飛び越えていて、ただ茫然と繰り返した。 アトリはヤンバルを好きになる。 ホークは自分の予感があたったことに、なぜだかうれしくなった。 「ヤンバルへようこそ、檳榔売りのアトリ」 街の大きさも人の多さも、何もかもがアトリの想像したこともない世界だった。 ホークに言われるがままに港の岸に船を寄せるが、その港の大きさに目をまわしてしまいそうだった。島では皆アトリの船とおなじくらいの船に乗っているが、ここではその何倍もの大きさの商船が当たり前のように何艘も停留しているのだ。 「うわああああ」 大きな船が停留できるということは、それだけ岸辺の水深が深いということになる。 アトリにとって船も港も砂浜や浅瀬にあるものだったので、海の底が見えないほど濃い青が船の下に広がるこの港は、生まれて初めての経験で不思議だった。船から指を海面にちょんちょんとつけて珍しがる。 「何もかも初めてなんだな」 「うん、こんなにヤンバルが大きいなんて知らなかった!」 「そうなのか。ああ、そういえばこの街にはどのくらい滞在するんだ?」 「うーんと、少し長く?かな」 「少し長く?それはいい、礼がしやすくなる。何処に泊まる予定だ?」 ホークの言葉に、ロープで船を岸辺に停めながらアトリは不思議そうな顔をした。 海の蛮族、と自称するだけあって、ホークもまた海に生きる者らしい手つきで停留の準備を手伝った。ごく自然と岸にわたってアトリからロープを受け取る姿はよどみがなく、様になっていた。 きょとんと、アトリは小首をかしげる。 「アトリは檳榔売りだし、遠出をしたら船で寝るよ?」 その答えに今度はホークがきょとんとする番だった。 華奢なアトリと、変わった形の船。 「船でって、どうやってだ?」 「ホークは海の蛮族なのにそんなことも知らないの?」 えへん、とアトリはちょっと得意そうにした。 まるで年長者が年若いものへ教えを説くような、自分勝手なうれしさに顔をにやつかせた。 アトリは『蛮族』が何を意味する言葉なのかもしらなかった。 たぶん、知らないんだろうなとホークは思いながら、アトリを見下ろす。 「知らない岸辺や街で寝泊まりするときは、岸とか港とか目立たないところに船を寄せて、布で覆って寝るんだよ?砂浜があるなら近くに藪があるし、この船も最悪抱えて引っ張れるんだから!」 常識じゃん!と胸を張るアトリは、ホークはじっと見降ろした。 「なに?」 「ここの街は一晩港を使うなら、お金が必要だぞ。持っているか?」 ホークは金貨を知らない様子だったことを承知でそう尋ねてみた。 するとアトリの表情はさっと曇る。 「アトリお金なんて持ってない…。檳榔を売るつもりだったもん…」 さらにアトリの表情は曇る。 「檳榔全部、海に捨てられちゃったんだった!」 あわあわとアトリは周囲を見渡す。 「檳榔樹とキンマの葉を探さなくちゃ!どこかな、どこに生えてるかな?」 檳榔は、檳榔樹になる実と石灰とキンマの葉から作る。 知らない土地に来れば、それを探すところから始めないといけないし、その縄張りの檳榔売りに聞かないといけない。 しかし美しいヤンバルの街並みのどこを見ても、檳榔樹がありそうな場所の検討もつかなかった。 「この街の檳榔売りの人に聞かなくちゃ!」 「アトリ」 お金がない、檳榔がない、檳榔樹がない、泊まれなくなっちゃうと慌てるアトリに、ホークは落ち着いて声を掛ける。 「この街に檳榔売りはいない」 「えええ!!!」 その言葉は衝撃だった。 檳榔売りがいない? アトリには『6万人』と同じように、その意味が理解できなかった。 しかしじっと、深い海のような黒とも紺とも思えるホークの瞳がアトリを見ていた。 その瞳に見つめられると、アトリには嘘をつかれているようには思えなかった。 「えっと、えっと……」 アトリは泣きそうだった。 どうしたらいいのかわからなかった。 でも島に戻ってアーロンの妻になるのは嫌だったし、オレンジしかない今島にたどりつける気がしなかった。 運命の人を探すのってこんなに大変だったの? 島を出たら檳榔を売りながら探せば、なんとかなるものだと思っていたアトリは、とりあえず自分が大きな壁にぶつかっているのは理解できた。ただ壁が大きすぎて、どうしていいのかまったくわからなかった。 「えっと…あ」 「どうした?」 「アトリ、お腹すいた…」 ぐうう~とアトリの腹がなる。 静かにアトリを見守っていたホークはしばらく黙っていたが、耐えきれず肩が震えだした。 「ははははッ!アトリ、そうだな、食事の間もなく俺が急がせたな!お前には考えなくてはいけないことがたくさんあるようだ。それには腹が減っては何もできまい」 「笑わないで!お腹がすくのはおかしいことじゃないもん!」 「すまないすまない、タイミングがもう、おかしくてな」 ホークはよく笑うな、とアトリは思った。 笑いながらホークが膝をつく。 ヤンバルの港の石段を踏みしめながら、船の上に立つアトリに手を伸ばす。 「では、こうしようアトリ。俺のところに身を寄せるといい。慣れない街で恩人をこのまま放り出すのは心が痛む。誰よりも早く俺をヤンバルへ送り届けてくれたお礼だ、お前が出ていきたいと思うまでいていい。どうかな?」 アトリはその手を見つめて、息を飲んだ。 どん底から一気に希望が見えた。 わしっと両手でホークの手を掴む。 「そうしよう!」 「なら、決まりだ」 ホークはぐいっと腕を引いてアトリをヤンバルへ引き上げた。 とん、とアトリのはだしの足が白い港の石畳みを踏みしめる。 固い地面を踏んでいる感触にアトリはなんとも言えない、高揚した気持ちを感じた。 「よろしく、アトリ」 「うん!!よろしく、ホーク!」 何とかなる、というアトリの発想力はこういうことを繰り返すうちに強化されてきた。 無邪気ににぱにぱと笑顔になるアトリに、ホークも思わず口元が緩んでいた。 こっちだ、とホークはアトリを連れて歩き始める。 人にぶつかり、流されそうになるアトリを見かねて、つい手をつなぐ。 「そういえば、アトリはヤンバルに何しにきたんだ?」 アトリはホークに連れられて歩きながら、見たこともないものに目を次々に移らせて答えた。 「アトリね、運命の人を探しにきたの」 「なんだって?」 ******************** 「ありえないわ!」 アーロンに向かってすり鉢が飛んでくる。 顔のすぐそばの壁に当たり、けたたましい音を立てて崩れていく。 アーロンはただ黙って妻の怒りが収まるのを待った。 「檳榔売りの分際で結婚を断るだなんて…ッ!」 「マゲイ、そう怒るな。アトリはわかっていなかったんだ」 「私はあなたに怒ってるのよ!」 マゲイは大きな目をかっと見開いてアーロンに詰め寄る。 妻の迫力に気圧されてアーロンは後ずさったが、背後には扉があるだけだった。 マゲイの金切声はきっと家の外にも聞こえているはず。 明日両親からなんと言われるかと思うと、気が重かった。 「いい?!あなたの妻はこのあたしなのよ!あたしはね、この島で一番の美しい娘なのよ!ヤンバルの学校にだって通ってたし、あっちで結婚だってできたわ!でもあなたの両親と私の両親が決めてしまったから、しょうがなくここにいてあげてるの!」 「ああ」 マゲイはまるで自分は被害者だというようにアーロンを怒鳴りつける。気位が高すぎる彼女とアーロンは、夫婦とはいえどもいまだ形だけの状態だった。マゲイはアーロンが自分に釣り合う男だとはこれっぽっちも認めてはいないのだ。そんな男に指一本でも自身に触れさせるはずがなかった。 「檳榔売りに逃げられた男なんて、島中の笑いものだわ!あなたの妻である私だって、明日から島の女たちに何と言われるか!信じられないわ、名誉を穢すぐらいなら、かえってこなくてよかったのに!どうして引き返してきたの!」 「従者たちの家族に何も告げずに、遠出させるなどできるわけがないだろう。ここは俺の家だ、帰ってきて何が悪い」 「ここは私の家よ。あなたは従者に無理をさせてでもそうするべきだったわ!恥知らず!あなたはいつだって私をみじめにするんだわ!」 アーロンはうんざりした。情けない夫の妻というのが、この世で一番みじめな存在だというマゲイの言い分はもうあきれるほど聞かされている。 もういい、とマゲイに背を向けた。 ここが自分だけの家で、お前の家ではないというのなら、好きにするといい。自分はアトリの小屋ででも寝ればいい。そう思ってそとに出ようとすると、マゲイはさらに怒った。 「冗談じゃないわ、あなたはこの家で寝るのよ!ほか人のところになんて、行かせやしないわよ!」 「いい加減にしないか!お前は俺が何をしても怒っている、いったい俺にどうしろというんだ!」 振り返るとアーロンは息を飲んだ。 「お前…」 マゲイは泣いていた。 目を真っ赤にして、大粒の涙が頬を伝っていた。 彼女は滅多に泣いたりしないことを知っているアーロンは、動けなかった。 震える唇が、悔しそうに歪む。 「アトリをいますぐ連れ戻してよ!必ずアトリと結婚してよ!」 涙をぬぐいながら、マゲイはそう叫ぶ。 「アトリを守ってよ!約束したじゃない!!」
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