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1
運命の人を探しなさい。
あなたならきっとできるよ、アトリ。
自分の心に従って生きていれば、きっと。
きっと、よ。
***************
アトリは檳榔を売って暮らしている。今までもそうだったし、これからもそうだ。
檳榔、というのはヤシの仲間の植物で、アトリは島の中でたわわに実を結ぶ檳榔の木を良く知っていた。その実のことを檳榔子びんろうじと呼んで、口の中に入れて噛むだけ噛んで吐き出すという親しまれ方をしている。
アトリの島では男たちはもちろん檳榔をよく噛むし、老人も檳榔を噛む。女の人も噛む人もいるが、男に比べるとその割合は少ない。
アトリを育ててくれた人たちは檳榔売りを教えてくれた。青い実のころにとってきて、キンマという植物の葉に石灰を塗って、きれいに整えて檳榔子びんろうじに巻く。上手に作ることができた檳榔はとてもかわいらしい形をしていて、檳榔のことを森の妖精の手土産と呼ぶ人がいるのもうなずける。
キンマの生えている場所、石灰のある場所、石灰の作り方、キンマの育て方。
島の人たちがいろんなことをアトリに教えてくれたので、アトリは生きていくのに困ったこともないし、これからも困ることなんかない。
そうアトリ本人は信じて疑わなかった。
しかしどうだろう。
アトリが15歳になったころから、島のひとたちが結婚するようにうるさく言い始めたのだ。結婚しておかないと、これから生活にこまったときはどうするんだ、と優しくたしなめられると、アトリはそうなのかなと言う気持ちになる。しかししばらくして、しわくちゃの檳榔売りのおばあちゃんもいるのだし、アトリも別に困らないのでは?という思いに駆られる。
結婚したほうがいい、と言われるたびにこう答えるようになった。
「でもアトリはしたくないし」
こういうと大体の人はお菓子をくれて、檳榔を買って、お前はいくつになってもアトリだと笑って去っていく。
檳榔で真っ赤になった歯はちょっときもちわるいな、とアトリはおもっていたがそういうときの笑顔にのぞく歯は好きだった。
そうやってのらりくらりと結婚の話をかわしていたが、1年もすると島の皆に、お前はそうやってやりたくないことは何一つやらないんだ、と怒られる羽目になった。
「檳榔はいらんかね。檳榔はいらんかね」
そういいながら島中を日がな一日うろうろして檳榔を売る。日が沈んだり、やる気が無くなったらアトリは自分の家に帰っていた。ずっと一人で暮らしているアトリの家は木と藁でできた簡単なものだった。島で家族を持つ人たちの家よりも何倍も小さいが、アトリは広いところに一人でいるのは好きじゃないのでこれで良かった。
「アトリ」
家の前にたたずむ影があった。日暮れの薄暗い中でもアトリにはそれが誰かわかった。
「アーロン、何してるの?」
「今帰ったのか」
「うん、そうだよ。あ、それお土産?」
「ああ」
アーロンは島の世話役の息子で、兵隊のようなことをしている。島の外とのやりとりを手伝ったりもするし、猟師のように獣を獲ってきたりもする。
アトリは正直アーロンが何を考えているのかはよくわからなかったが、幼馴染として仲は良いほうだった。
アーロンの持ってきた魚の干物を二人で食べ始める。アトリは一人で暮らしてはいるが、自分の食事が何一つ作れない人なので、お客さんが来てくれると嬉しかった。その人が料理をしてくれるからだ。
「お前も汁の一つはつくれないといけない」
「なんで?アトリは作れなくてもこまらないよ」
「これから困るようになる」
「ならないもん」
「俺が仕事から帰ってくるのに、お前は食事を用意してないんじゃ、俺の両親にお前が怒られることになってしまうんだぞ」
ぼと、とアトリは思わず魚を落とした。
最近アーロンがよくやってくるな、晩御飯持ってきてくれるの楽ちんだな、と思っていた。ときどきアーロンの家に連れて行ってくれるのも、おいしいごはんが食べれて嬉しいな、と思っていた。
でもひょっとしたら何かアトリは自分で勘違いしていることがあったのかもしれない、と思った。
「なんでアトリがアーロンの仕事が終わるのをまっているの」
「なんでって…」
アーロンは呆れたような顔をした。
じっとアトリを見つめて、ため息をついた。
「お前、この間の話を何一つ聞いていなかったな。いいか、俺たちは婚約したんだ。お前は俺の2番目の妻になるんだぞ」
「うそ!」
アトリは初耳だった。一体いつの間にそんなことになってしまったんだろう。
「島長のところに呼び出されたんだろう?そこで何もきかなかったのか?」
島長のところ、と言われてアトリはなんとなく思い当たることがあった。呼ばれていたよ、と檳榔を売っている最中に言われたので出向くと、島長がまた結婚をしなさいとうるさく言っていた。アトリは早く話を終わらせてしまいたかったので、はあ、とかうん、とか返事をした。
「島長から俺との結婚の話を聞いたあと、3回俺を招き入れて、3回俺の家を訪ねただろう。俺たちはもう婚約しているんだ」
アトリは驚愕した。
遊びにいっているつもりだったのに、そんなことになっていたなんて。
「1番目の妻は親の言う通りの女と結婚したんだ。2番目くらい好きにさせてもらうつもりだったが、まさかお前が何もわかっていなかったとは」
人の話を聞かない、といつも注意されていたが、それがここにきてこんなことになるとは思っていなかった。
アーロンは明日迎えにくるから、と言って帰っていったが、アトリは一晩中どうしようと考えていた。
アーロンが嫌いとか、そんな話ではないが、アトリは結婚したいとは別に思えなかった。それにアトリはアーロンの一番目の妻とは仲良くできる気がしなかった。彼女はアトリたち檳榔売りを汚い仕事だと思っているのだ。
アトリという人は本当にいつも、やりたいことはやるし、やりたくないことはやらない、という単純なところがあった。アトリは結婚したい、と思えないのでしたくない、というごく単純な理由でアーロンに断りを提案してみたが、アーロンはまたアトリの悪いくせがはじまったんだな、ぐらいの気持ちでどうも聞いていたみたいだった。
翌朝、アーロンは荷車を持ってアトリを迎えにきた。
アトリの荷物を持って行くためだった。
まだ寝ているだろうと思って控えめに扉を叩くと、驚いたことにアトリは勢いよく飛び出してきた。
「アーロン、アトリは結婚したりしないよ!」
自信満々にそう言い放つアトリ。
そんなことには慣れっこなので、アーロンはかまわず家の中のものを荷車に積み込み始めた。
「わかったわかった。でもとりあえず、今日から俺の家がお前の家だぞ」
「違うよ、アーロン。アトリ、もう島にしばらく帰らないもん」
「は?」
思わず手が止まる。えっへん、と腰に手を当てている精神年齢の幼いところのある婚約者をまじまじと見る。
「アトリ、運命の人と結婚する。運命の人をさがしにいく!」
アトリはやりたいことはやるし、やりたくないことはやらない。
一度言い出したことは気が済むまでやらないと納得しないアトリ。
ひょっとするとこれは、本気で言っているのかと思って聞いてみた。
「どうやって運命の人を探すんだ」
「そんなの!とりあえず島をでたらなんとかなるんじゃない?」
アトリという人はやりたいことは果たしてどうやったら実現できるのか、は深く考えない人だった。アーロンも島民もそんなところが心配でならないのだったが、本人は本当に無自覚で困っていた。
浜辺で網の修理をしていた島民は、ひっくり返った船が一人でに浜を歩いてくるのが見えてぎょっとした。しかしすぐに、そのよたよたとした歩みが人のそれだと知って、ああなんだと思った。
「おい、あれはアトリじゃないか」
「ああ、本当だ。檳榔売りの」
「おおーい!お前なんだって船を運んでるんだー?」
大声でよびかけると、一瞬船は立ち止まった。そして少しばかり歩を速めてやってくる。
「こんにちは!ちょっと手伝って!」
明るいアトリの声が船の下から聞こえてくる。
島民の二人はアトリを快く手伝ってやった。暇つぶしに檳榔売りでもこないものかなと、ちょうど思っていたところだった。
船をひっくり返して海へと向ける。折りたたんでいた帆をアトリが器用に組み立てていく。よく手入れされた船に、美しい青い海の波が寄せては返していく。
「アトリ、なんだか大荷物だな」
「そう!ぼくちょっと遠出しようと思って」
「へえ、遠出かあ」
出航の準備をすっかり整えたアトリは、島民たちが期待した通りに檳榔を駄賃替わりに分けてくれた。2人の島民は檳榔を噛みながら自分たちの船に腰を下ろし、ひとりせっせと縄を修理するアトリとぼんやりと時間を過ごしていた。
「あれ?アトリはアーロンの2番目の妻になるんだろ?輿入れが近いんじゃないのか」
一人が思い出したようにそういうと、アトリは顔をしかめた。
「なんだ、皆その話を知ってたの?知らないのアトリだけだったんだ」
「またお前話を聞いてなかったんだな。檳榔売りを養ってくれるというんだ、アーロンに感謝だな」
「そう。でもさ、結婚したいなって思わないから、ちょっと遠出しようと思って。島を出ていこうかなっておもうんだよね」
「おいおい、お前は檳榔売りだぞ?外で何ができるって言うんだよ?だいたい何しに行くんだ、島の外で」
島民二人は何かしら怪しい気配を胸に感じた。
アトリは何も考えていないことで有名だが、考えが真っ白すぎて突然嵐を持ってくることもある。アーロンのもとを去るということに、とてもではないが彼が同意しているとは思えなかった。
「運命の人を探しにいくんだよ!」
屈託のない笑顔でそう言ったアトリは、カヌーの後ろをうんしょと押して海へと進んでいく。
じゃぶじゃぶと手慣れた様子でカヌーを浮かせると、ひょいと飛び乗って少しだけ船体が揺れる。アトリの船は少しだけ変わっていて、細長い船の片方にとってつけたようなT字の小さな浮きが付いている。海面から少し浮いたその浮きに、アトリがロープを巻き付けていく。
「アーロンは知ってるのか、それ」
心なしか、島民の檳榔を噛む速さがぐんと遅くなっていた。
アトリは二人の顔が緊張していることに全く気が付いていない。
「知ってるよ!さっきすっごくそれで怒られたから、逃げてきたんだよね」
そう言ってアトリは帆をざあっと下ろす。その瞬間、島のてっぺんの火山からびゅううっと風が吹き、まるでアトリの背中を押すように吹き付けてくる。髪に遊ぶように風を感じて、アトリはふふふと笑って手を振る。
あっという間に、アトリの船は島を離れていく。
「あ、ああああ!アトリー!まて!」
アトリが離れていくと同時に、漁師である島民二人は浜の向こう側から鬼の形相をしたアーロンたちが見えた。アーロンが怒鳴り声をあげて、島の兵士たちと船に乗り込んでいく様子が見える。
この島の世話役の息子に、檳榔売りごときが結婚を断って逃げるなど、普通はあってはならないことだった。
「もどってこーい!」
叫ぶ漁師たちにアトリはますます手を振る。
「運命の人を見つけるまで、戻らないからー!」
視界の反対側の浜では、そんなアトリめがけてアーロンの引き連れる兵士たちが船をこぎ始める。
「アトリ!!!!いい加減にしろ!!おい、そこの漁師たち、お前たちも覚えていろ!連れ戻したら3人とも罰はうけてもらうからな!」
「ひいっ」
怒りくるったアーロンが浜の漁師たちめがけて石を投げつけてくる。
だらだらと直したばかりの網に石がひっかかり、また破れていた。
とんだとばっちりを食らった漁師たちは、溜息をつきながら2艘の船をぼうっと眺めるしかなかった。
「アトリ・・・かわいいんだけどなあ。突拍子もないからなあ、昔から」
「ああ。あれ追いつけると思うか?アーロン達」
貰ってね!とアトリが置いていった新しい檳榔を口に入れながら、もう一人の男が首を振りながら答える。
「無理だろ。アトリだぜ?海に出たあいつに、追いつけるやつなんかいねえよ」
「そうだなあ」
アーロン達があきらめて戻ってくる前に、さっさと逃げないとなと思いながらも、のんびりとした島の陽気と打ち寄せる海の波に、漁師たちはまたひとつ檳榔を口に入れて噛みながら、小さくなっていく船をいつまでも見つめていた。
アトリの運命の人探し一日目は、島からの出奔だった。
しかし3日後には、アトリはさっそくそれどころではなくなってしまうのだが、それを知っているのは青と緑と波の白さに輝く美しい海だけだった。
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