母の遺言

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香織(かおり)、ごめんね。こんな母を許して・・。」 そう言ったきり、母は深い昏睡の闇へと吸い込まれた。 (非常に重篤な状態です。お嬢様も覚悟しておいて下さい。) 私は医師の言葉を胸の中で反芻した。 ヘリンボーンに仕上げた濃褐色の床にアイボリーの壁紙。 飾り気は無いが清潔なこの広い寝室で、母は最期の時を迎えようとしていた。 私は母の白い手に触れる。そして母の人生に思いを馳せた。 母、宮水静子(みやみずしずこ)は力強い女だった。 私が幼いころ、父は水商売の女とともに姿を消した。 私たち母娘に残されたのは、多額の借金と工房に併設された物置みたいな平屋だけだった。 母は鞄職人だった父が去った後も、工房にこもって鞄の創作を続けた。 母が作る皮鞄は、独学であるがゆえに独創的で奇抜なアイデアに満ちていた。 やがて、母の作品は少しずつ世に認められるようになった。 その希少性と強気な値段設定も相まって、国内外から人気を博すようになった。 皮鞄から始まった母の事業は、鞄以外の小物や服飾、装飾品にまで拡大し、今やファッションブランドとして揺るぎない地位を確立している。 私は母の手に触れながら、その冷たさと同じくらい自分の心が冷然としていることに今更ながら困惑した。 いまわの母を前にして、私の胸にあるのは悲哀ではなく、ある種の高揚感だった。 これですべてが私のものになる。 この美しい屋敷も、会社の経営権も、莫大な財産も全て。 ステンドグラスの窓を叩く鋭い雨音も、心地よい旋律となって胸に染みる。 私は母のベッドを離れると、紫檀色のカーテンをそっと開いた。 夜嵐の中で狂ったように揺れる松の枝葉が見える。 そして水しぶきを上げながら庭園を横切り、屋敷に近づく二つのヘッドライトも。 「香織様。お客様がお見えです。」 ほどなくして、家政婦から声がかかる。 こんな時間にいったいどこの非常識かしら。 私は怪訝に思いながら階下の応接室へ向かった。 待ち受けていたのは、見知らぬ貧相な男だった。 年は五十を過ぎたころだろうか。灰色のスーツは横殴りの雨にやられてびしょ濡れだ。 服装に合わせたかのように寂しい頭髪が、男の侘しさを際立たせている。 男は(うやうや)しく一枚の名刺を取り出した。 何の特徴もない名前の上に「弁護士」の肩書があった。 「夜分遅くに失礼したします。今夜は宮水静子様の遺言の件で参りました。」 遺言? 唐突な言葉に私は内心、動揺した。 「母が、遺言を作成していたのですか?」 「左様でございます。私は遺言作成のお手伝いをさせて頂いております、いわゆる遺言執行者でございます。」 私に促され、弁護士は恐縮しながらアンティークのソファに腰掛けた。 「宮水様は作成中の遺言を一旦、お知り合いにお預けになると仰っておりました。しかし、どこのどなたにお預けになったのか一向に連絡がありません。そこで直接お伺いしようと参ったわけでございます。」 「あいにくですが、母は先日より深い昏睡状態に陥っておりまして、お話できる状態ではありません。」 「そうでしたか。それは困りましたな。お母さまの遺言の預け先について心当たりはございませんか?」 「それはこちらがお聞きしたいくらいですわ。遺言の存在自体、知らなかったのですから。一体どのような内容が記されているのかしら?」 「それがですね、私も形式的な助言をさせて頂いている段階で。具体的な内容についてはまだ把握していないのです。ただ、お母さまは経営に直接関係のない第三者に預けると仰っていました。もし何か心当たりがありましたら、いつでもご連絡を。」 屋敷を後にする弁護士の貧相な背中を見送りながら、私は唇を噛みしめた。 母が遺言を作成していたなんて。 経営戦略に対する意見の相違から、母との溝は年々深まっていた。 会長と取締役としての対立はやがて、母娘間の激しい憎悪の応酬へと変わっていた。 ひょっとして、母は私以外の誰かに会社の経営権を譲る気ではないだろうか。 いや、それどころかこの屋敷を含めた財産までも。 近年の母との壊滅的な関係を鑑みれば、ありえない話ではない気がした。 母が残した謝罪の言葉も、わずかばかりの懺悔の気持ちからだったのかもしれない。 会社の側近でないとしたら、いったい誰に遺言を預けたのだろうか。 思えば母のプライベートな交友関係など全く把握していない。 私にとって不利な遺言が存在しているのなら、何としても見つけ出して処分しなくては。 気が付くと、私は手の中の名刺を握りつぶしていた。
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